たが、然し、私の頭には別な事柄が残った。どこかの室に、夜通し灯火がついていたり、夜通し人影一つささないというのは、何かのことでもあり得るものであるが、その「夜通し」ということを、誰が一体見極めたのか、別所が見極めたとすれば、別所は夜通し起きていたということになる。或は、一夜は一時頃に、一夜は二時頃にという風に、数夜を費しての結論であるとするも、そんなばかげたことをしたとすれば猶更おかしい。いずれにせよ、別所はその頃よく眠らなかったものらしく、実は何を悩んでいたのであろうか。
それはとにかく、事件の前夜、私は別所と妙な逢い方をした。
その夜、私は久しぶりに数名の友人と飲み且つ談じ且つ飲んで、相当に酔っていた。酔ってから深夜の街路を彷徨する楽しみは、多くの飲酒家の癖で、私も多分にもれず、自宅もさほど遠くないものだから、ぶらぶら歩いて帰ってきた。もう人通りも極めて少く、電車もなく、春の冷々とした夜気が肌に快かった。電車通りからそれて暫く行くと、神社のわきに出る。そこには、低い石柱に二本の鉄鎖を渡した柵が、道路と神社の境内とを区切っている。
その柵の鉄鎖に、一人の男が腰をかけて、丁度ぶらんこにでも乗った恰好で、ふらりふらり身を揺っていた。境内の淡い照明の光ですかして見ると、なんだか見覚えあるような青年だから、その前で私は立止った。袷の着流しに無帽の彼は、きょとんと顔をあげた。別所だった。
「何をしてるんだい。」
別所は黙って私の顔を見ていたが、立上りもせず腰掛けたままひょいとお辞儀をした。明らかに彼も酔っていた。私ももうその時は、柵の鉄鎖に腰を下していた。ゆらりとして倒れそうになるのを、片手を石柱にかけ足をふんばると、案外に腰掛工合はよかった。
「先生のとこに行こうかと思ってたところですが、ここにひっかかっちゃって……。」
「これから来いよ。」
「ええ。」
だが、そこは酔っ払い同士のことで、腰掛けたまま話しだした。
「君が酔ってるのは珍らしいね。李永泰にでもかぶれたのかい。」
「李が何か……先生に頼むとか云ってましたが、あれはやめて下さい。」
「やめるって……何をだい。」
「先生を媒妁人にするんだと云ってました。」
「ははは、それはよかろう。大いにやるよ。」
別所は、ひどく悄気たようで口を噤んだが、やがてきっぱり断言した。
「然し、私は結婚はしません。」
少し話が変なので、よくきいてみると、別所と野田沢子との結婚には私を媒妁人に立てるんだと、李が一人できめているのであった。
「私は何もかもやめたんです。」と別所は云った。
「それはおかしいじゃないか。恋愛から結婚に行くのは、当然のコースだろう。」
「私は彼女がきらいです。なにも、処女でなければならないということはありません。然し、一度妊娠して流産したような女はいやです。また、やたらに妊娠するような女はいやです。」
なんだか捨鉢な調子だった。それをいろいろ敷衍さしてみると、結局、野田沢子は嘗て或る男と同棲したことがあり、それは構わないが、妊娠して流産したこともあるらしいという、その「らしい」を確定的なこととすれば、他の男との関係で妊娠したような女には生理的に反撥を覚ゆるというのである。また、そうやたらに、この「やたらに」もおかしいが、やたらに妊娠するような女には精神的に反撥を覚ゆるというのである。――これはまあ私にも同感のいく事柄で、反対も出来かねたし、第一、私はまだ野田沢子に一度も逢ったことがなく、ただ、短歌雑誌や婦人雑誌の編輯をエキストラとして手伝ったりしてる女で、顔立は普通、痩せ型の中背、髪は短くカールし、派手な洋装をしたりじみな和服をきたりしているという、それだけのことを聞き知ってるに過ぎなかった。だがこの肖像は、「やたらに妊娠する女」とは見えなかったし、またそれを裏書きするような不平を別所は洩らし始めたのだった。
「互に逢っても、愛情のことだとか、心の持ちようとか、そんな方面の話は少しもしないで、支那問題だの、非常時の女の生活だの、世界の情勢だの、戦争論だの、そんなことばかり話す女を、先生はどう思われますか。」
「そりゃあ君、いくら恋愛の仲だって、始終愛情のことばかり話すわけにもゆくまいじゃないか。」
「そんなら、愛情のことは一言も云わないで、やたらに妊娠ばかりする女をどう思われますか。」
「また妊娠問題か。おかしいね。もうおなかに子供でも出来たのかい。」
「そんなことはありません。絶対にありません。けれど、もしそうなった場合は、困ります。」
「なあに、結婚しさえすれば、大いに国策に沿うわけじゃないか。」
「それは別箇の問題です。」
その、別箇の問題から、話は沢子のことを離れて、急に飛躍してしまった。
「杞憂と事実の問題だよ。」と私は云った。
「そんなら、杞憂と事実とを何が区別してくれるんでしょう。」
「初めから区別は出来なくても、それは、現実そのものが処理してくれるよ。その現実の処理を先見することだね。」
「先見がそのまま杞憂になることだってありましょう。現実は気まぐれで、ちょっとした機縁でどっちへ進むか分りません。だから、現実を指導することが必要で、現実の処理に任せておけないんです。」
「それは循環論だよ。」
「そうです。すべてが循環論法で進んでゆきますから、そのどこかに終止符を、基点を据えなければなりません。私は指導のところに基点を置きます。それだけの誇りを持ちたいんです。だから、李の所謂公の立場というもの、公の立場の最も完全なものは機械だという説を、一応認めながら、賛成しかねるんです。あんな説を押しつめれば、人間から精神力を奪うことになります。」
「いや、それは誤解だろう。李はあの機械説というか公の立場説というか、あれに高い精神力を認めて、そこから物を言ってるんじゃないかね。」
「精神力じゃありません。単なる力です。そういう力は、人の熱情を窒息させます。いつかこんなことを云いました。火の如き熱情という言葉があるが、あれは嘘っぱちで、火は精神力ではあっても、熱情ではなく、熱情というのはくすぶってる薪にすぎないと云いました。然し、単にくすぶってる薪でもなんでもいい、熱情によってこそ人は救われると私は思います。ところが、熱情は次第に世の中から衰えて、所謂精神力だけが横行してきてるんじゃありませんでしょうか。この頃では更にその精神力まで衰えて、ただ体力ということが表面にのさばりだしてきました。」
「だが、その体力ということは綜合的なもので、君の云う熱情や精神力や、身体の力や、其他のものをも含めて云われるんじゃないかね。」
「本来はそうなんでしょう。けれど、身体の力だけがのさばって、熱情なんか消えかかっています。私は人中でふと、俺は違うんだぞと叫びたくなることがあります。今晩もあるおでん屋で酒を飲んでるうちに、そんな気持になって、俺は違うんだと心の中で叫んでいました。周囲の者がみな木偶坊に見えてきました。木偶坊といっても、鉄か石かコンクリーで出来てるやつです。頑丈だが、あらゆる意味で不感性のやつです。それらの中で、私一人酔っ払って、そこを飛び出して、ぼんやり歩いていますと、急に悲しくなりました。私には、世の中に、真の職場というものがないんです。精神を打ち込める職場というものがないんです。文学といったような空漠たるものでなく、もっと直接当面の職場です。それがどこにも発見出来ない悲しさです。この悲しさはなんだか、普通のものと質のちがったもので、ともすると、深い憂鬱か烈しい強暴かに変りそうな危険があります。そのことを、この鉄の鎖のぶらんこの上で考えていましたが、なんだかいい気持になってきました。」
「いい気持に……。」と私は繰返した。
「いい気持です。考えつめて、もう考えまいというところまで来ると、いい気持です。」
私はそれにはっきり同感が出来ず、然し何か心を打たれて、我知らず立上った、そして夜気を吸いながら煙草に火をつけると、別所も同じく煙草を吸いだした。
「まあゆっくり話そうよ。僕の家に来るんだろう。」
「もういいんです。ここでお逢いしましたから、また伺います。もう何時でしょう。」
用件以外の時には私はいつも時計を身につけていなかった。感じからすればもう一時頃になっていたろうか。
そして私は別所と別れたのであるが、酔っていたからよく覚えていないけれど、大体右のような会話だったと思うし、最後の彼の言葉はへんに頭に響いた。
その夜、これは後で知ったことだが、野田沢子がじみな和服を着て別所を訪ねて来、別所の不在をきいて眉をひそめ、用があると昼間から打合せてあるのにと云い、帰りを待つとて李の室にあがりこんだ。それから二人で正枝のところに来て、賑かにトランプなんかして、十時すぎに沢子は帰っていった。別所と沢子は許婚の間柄だと李が吹聴していたものだから、正枝は沢子を好遇していたし、その晩も、菓子や果物などでもてなしたのだった。
ところで、不思議な事件のことだが、それ自体はさほど重大なものではない。それを最初に見つけたのは李であった。李は時折早起きしては、アパートの東側の崖上の空地に出て、朝の冷気のなかで、陽を浴びたり体操の真似事みたいなことをしたりして、少時を楽しむことがあった。その朝も彼は早く起き出して、どんよりした曇り空ではあったが、空地に出て行き、暫く歩いてるらしかったが、俄に駆け戻ってきて、女中のキヨに手真似で変事を知らせ、正枝の室の扉を打ち叩いて叫んだ。
「大変です。早く起きて下さい。赤ん坊の死体がころがっています。」
うとうとしていた正枝は、赤ん坊の死体ときいてびっくりし、寝間着の上に羽織をひっかけて飛びだしてきた。李が先に立って空地の方へ行くのに、正枝とキヨがすぐ後に随い、他に止宿人の男女二人も声をききつけて、おくれてついて来た。そして空地の片側、建物よりに椿の木が立並んでるその下蔭のところに、李が指し示すまま、皆の視線は注がれた。そこには雑草が生え、椿の赤い花が落ち散ってるなかに、まっ白な小さな肌がなまなましく見えていた。曇り日の早朝の仄白い明るみが、その白い肌を不気味に露出さしていた。李は立止ってじっと眺めていたが、正枝と二人の止宿人とは、ひとかたまりになって、一歩二歩近づいていった。その死体の方へと強い糸で引きずられるようだった。
「なあーんだ……これは……。」
ふと、一人が嘆声めいた声を立てた。覗きこんでみると、死体と見えたのは人形らしかった。
「人形じゃありませんか。」と正枝が云った。
「え、人形……。」
あとから李が叫んで駆け寄った。そして五人いっしょに立並んで、じっと瞳を凝らすと、まさしくそれは大きな裸の人形で、俯向きに草のなかに放りだしてあり、頭のおかっぱの毛がちょっぴり見えていた。それでも一同は、なんだかまだ気味わるく、手出しする者もなく、首を傾げて人形を見つめていた。
そこへ、いつのまにやって来たか、別所が蒼ざめた顔に眼を見据えていたが、不意に笑いだし、椿の茂みをくぐって、建物の壁の根本につんであった煉瓦を三つ抱えてきて、物も言わず、それを人形の上に投げつけた。一つは外れたが、二つは的中して、人形は首が飛び、胴体に穴があき、足が一本折れた。ところが、そのばらばらな人形が却って不気味になり、三個の煉瓦がいやな風情を添え、それにまた、へんに椿の落花がそこいらに多くて、ぼたりと落ちてるのが、古いのは腐爛を思わせ、新らしいのは血潮を思わせた。
「片附けておきなさい。」
半ばはチヨに、半ばは誰にともなく、正枝は云いすてて、眉をひそめて立去っていった。
別所は人形に煉瓦を投げつけてから、血の気の引いた顔に硬ばった皺を寄せ、石のようにつっ立っていたが、李にさえ言葉もかけず目も向けずに、すーっと自室へ戻っていった。
暫くたってから、李が笑い出したのにつれて他の人々も笑いだし、煉瓦を片附け、壊れた人形を拾って塵箱に捨てた。
それだけならただ笑い話だが、その日の午後、正枝の室から人形が紛失した。独り者の年増婦人の室によ
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