くあるように、正枝の室にも、裾を引いた美しい衣裳を重ね着してる大きな童女の人形が、硝子箱に納まって、床の片隅に置いてあった。その大事な人形が、箱からぬけ出して消えてしまったのである。これには正枝は、赤ん坊の死体などのことよりも騒ぎたて、真赤になってアパート中をかき廻した。
 そのことを聞いて、李が正枝に詫びた。庭の裸人形の件は、全く李の悪戯で、知人の家の大掃除の手伝いの折、がらくた物の中から右の古人形を見つけ、水で洗ってきれいにし、正枝をおどかすつもりで狂言をやったのだった。然し、正枝の室の立派な人形のことなんか全然思ってもみなかったし、まして盗み心なんか起しもしなかった。
「悪戯のことはお詫びします。けれど、おばさんの人形を盗んだのは僕でありません。疑をかけられたら、僕は生きておられません。腹を切って死にます。」
 李が真剣にそう云うのへ、正枝はやさしい笑顔で報いた。
「あなたを疑ぐりはしませんよ。」
「本当に信じて下さい。疑われるほどなら、僕は死んでしまいます。」
 そして正枝は李を慰めてやり、うまい菓子をもてなしてやらねばならなかった。
 正枝の人形は遂に行方不明に終った。
 人形が紛失したのは、その日の朝の出来事から正午頃までの間だと正枝は云った。そしてこのことについて、止宿人の誰にも嫌疑はかけられないと正枝は断言した。話を詳しく聞いて私は、何か不可解な気持に囚われるのをどうすることも出来なかった。勿論、李を疑うわけではない。別所を疑うわけでもない。恐らく犯人は他にあろう。然しながら、その不思議な前後の事情より推して、この事件がへんに別所と結びついて考えられるのだった。別所に嫌疑をかけるというのでは更々なく、別所の心理とこのおかしな事件とが関係を持つのが否定し難いところに、この事件の不思議さがあった。
 別所は其後一ヶ月ほどして、出版書肆の方もやめ、野田沢子とも別れ、李をもへんに疎んじて、荷物をまとめて郷里山口県の田舎へ帰ってしまった。
 李は私に云った――「僕は別所君を好きでしたが、けれど、ああいうインテリは、僕の手におえません。」
 私は李の明るい顔を見て、ふと、人形の狂言のことを思い出し、その折の光景を想像しながら、壊れた人形のまわりに落ち散っていたという椿の花が、心にしみる気持がして、口を噤んでしまったのである。



底本:「豊島与志雄著作集 第四巻(小説4[#「4」はローマ数字4、1−13−24])」未来社
   1965(昭和40)年6月25日第1刷発行
初出:「公論」
   1940(昭和15)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:門田裕志
2007年5月6日作成
青空文庫作成ファイル:
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