椿の花の赤
豊島与志雄

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 この不思議な事件は、全く思いがけないものであって、確かな解釈のしようもないので、それだけまた、深く私の心を打った。
 別所次生が校正係として勤めていた書肆の編輯員に、私の懇意な者があり、別所について次のように私に語った。
「特にこれといって注意をひくような点は、見当りませんがね。ただ、しいて云えば、ひどくおとなしい男で、少しも他人と争うこともしませんでした。同僚に対してさえそうで、まだ一度も口喧嘩などしたことを私は聞いたことがありませんし、地位の上の者、殊に編輯長とか社長とかに対しては、殊に従順でした。何と云われても、はいはいと返事をするきりで、口ごたえ一つしません。御存じの通り、校正係というものは、小さな書店ではごくのんびりした時があったり、ひどく忙しい時があったりするものでして、仕事がたてこんでくる時には、夜分まで居残っていても間に合わず、幾台もの校正刷を自宅に持ち帰って目を通すことさえあります。そんな時、校正が粗漏だったりするのを、他人からつっこまれても、別所君は弁解がましい口を利くこともなく、済みませんとただお詫びを云ってるだけです。もっとも、校正はあまり上手な方ではありませんし、熱心にやってるようでいて、実は仕事が上滑りしてるという感じもありました。それからまた、忙しい仕事が一段落ついた後、社長から嫌味を云われても、おとなしく頭を下げてるだけで、不平らしい様子も見せません。もっとも、この方では、彼はずぬけて欠勤が多く、そのくせ遅刻は一回もない様子です。どうも見たところ、朝おそくなって、遅刻しそうな時には、そのまま一日休んでしまうという調子らしいんです。遅刻はいやだが欠勤は平気だというんでしょう。社長もこれに気がついたかして、彼の欠勤について或る時、純真な男だとふと口を滑らして、それからは社内で、欠勤の代りに純真を発揮するという言葉がはやったことがあります。あいつ純真を発揮しやがったなとか、明日あたり純真を発揮してやろうかなとか、そういった工合です。でとにかく、別所君については、ひどくおとなしいということと、欠勤が多いということが、しいて拾えば目立つ点でした。
 それから次に、これは私一人だけの意見ですが、別所君はいつも胸の中に無数の不平不満を、それもごく小さなものを無数に、ひとり秘めていたのではないかと思われるふしがあります。私はおもに社内にいて原稿の整理をしたりしていますし、席も別所君の近くなので、別に観察することもなく気付いたのですが、別所君は時々、というのはおもに暇な時なんですが、窓硝子ごしに目を空にやって何か考えこんだり、それからまた急に舌打ちをしたり、唇をきゅっと歪めたり、肩をこまかく揺ったり、手を握りしめたり、机の上の紙片を幾つにも折りたたんだり、へんに忙しい身体つきになります。そして始終、口の中でなにかぶつぶつ呟いてるようです。もっとも、校正をやってる人は、印刷された字面を追いながら自然と口の中で発音をまねる癖が多いようですが、別所君のはそんなのではなく、仕事をせず心を外に向けてる折にぶつぶつ呟いてるのです。それはあくまでも口の中だけで外へは一言も洩れません。洩れませんが分ります。泡を吹いてる蟹がもし不平家だとすれば、別所君の口のまわりにも泡がたまるかもしれないと、そんな感じがするのです。それでつまり、いろいろなことを綜合して、別所君は胸の中にたくさんの不平とか不満とかいうものを蓄えていたのではないかと、私は想像するのです。ゆるい火の上にかかってる鉄瓶のようなもので、ちょっと見ては実に静かな落着いたものですが、中はいつも外に音が洩れない程度にぐつぐつ煮たってるとでもいうのでしょうか。その鉄瓶が一度だけ、蓋を開いたことがあります。昼食の後に数人の者が雑談をしていまして、たまたま、威勢のいい連中のこととて、社の出版傾向が近頃では無方針にすぎるという議論になり、それならば一体如何なる方針を確立すべきかと、各自に勝手な熱をあげてる時でしたが、独り黙っていた別所君が、机の上で一枚の原稿用紙を例の通り幾つにも幾つにもこまかく折りたたみながら、「俺は別だ」とふいに大きな声で云ったものです。みんな虚を衝かれた態で、別所君の方へ目をやると、別所君も急に我に返った様子で、「いや、僕も賛成です。」と慌てて云ったものです。それがまた何に賛成なのか訳が分らないものですから、みんな唖然とし、別所君は顔を赤くし、ただ私には、「俺は別だ」との最初の言葉が別箇の独語として心に残りました。
 大体そんなところですが、別所君はつまり、人との応対に卑屈なほど従順であり、また遅刻をきらって平気で欠勤するほど純真であり、そして無数の不平不満を胸中に秘めてる男だったと、こうちぐはぐな浅薄な印象きりで、私にははっきりしたところは分りませんね。」
 右のような話は、それでも、それが背景となって、別所の姿を浮出させるのに役立った。
 私のところにも、他の背景があった。
 別所が李永泰に連れられて初めて私の宅に来た時、彼は殆んど口を利かずに、李と私との雑談を笑顔で聴いていた。しんは強そうだが、然し痩せた腺病質な体躯、血色のわるい細面の顔、しなやかな長髪、静かに澄んだ目差、それとなんだかそぐわない長い感じのする歯並、そうした面影が私の目に留った。それから一二度逢ってるうちに、彼も次第に口を利くようになったが、それでも、過敏な感性といったようなものが言葉を抑制するのが、私の目についた。自分の言葉がすぐ自分に反映してくるらしく、その蒼白い顔を度々赤らめるのだった。そのためにはまた却って彼の言葉を心からの真実なものと感じさせもした。これと並べると、李の言葉は平然とした明確なものだけに、却って嘘か本当か分らなくなる恐れがあった。少くとも、別所と共には笑い難く、李と共に笑い易かった。
 別所がやってる校正の仕事について、或る時、議論が二つに別れた。別所が校正枝術が下手でよく叱られるというような雑談から進んで、別所に云わすれば、内容の下らないもの即ち下らない文章では、初めから軽蔑した気分になって校正もうまくゆかないというのである。然し李に云わすれば、下らない軽蔑すべき文章ほど校正はうまくゆく筈だというのである。なぜなら、文字の上だけなら誤植のまま読み通せる場合がある以上、どうせ文章は読み取ってゆかねばならぬものだから、下らない文章ほどその場合の心の繋がりが稀薄になり、随って字面を辿る機械的な働きが高度化する。とそういう議論から、李が主張することは、凡て社会機能の機械的な働きの一つになり終ることが、これからのインテリ層に要求されることで、心とか精神とかいう古くさいものの薄れゆく影に執着するのは、水に沈む石ころにしがみついてるようなもので、やがて溺れ死ぬ運命を免れない。但し、ここにいう機械的な働きに身を置くことは、謂わば私情をすてて公の境地に腰を据えることだと、そんなところにまで李の議論は飛躍してしまった。
「現代の社会では、個人的感情の強い時ほど私の立場に立つものであり、その感情がだんだん薄くなって、機械的機能に近づくほど公の立場に立つことになり、機械に至り初めて完全に公の立場になります。別所君は全く機械になり得ない性格です。だから、先生も御存じでしょう、三年前、浅間山の噴火口に飛びこみに出かけたようなことが起るんです。」
「あれはちがうよ、君の方が私の感情で動いたじゃないか。」
 別所はそう叫んで、顔を真赤にそめた。
 その三年前の浅間行きというのは、別所が肺を病んだり野田沢子に失恋しかけたり、其他いろいろなことで、死を想ってる時に、李と二人で浅間の噴火口に出かけたことを指すのだった。李に云わせると、別所が果して自殺し得るかどうかを絶大な興味で観察しに行ったのだし、別所に云わせると、李があまり心配するのでそれを安心させてやるためについて行ったのだった。その、事の真偽はともかくとして、話の裏に見られる二人の友情に私は快い笑みを感じた。
 李は口では別所をいろいろやっつけながら、別所のために何かと世話をやいていた。別所が野田沢子と仲直りをし恋愛関係にはいったことを知ると、なおその上に別所はちゃんと出版書肆に勤めていることでもあり、従来のきたならしい古下宿屋ではいかんと主張して、彼を引っぱって方々のアパートの空間を見てまわった。然しどこにも李の気に入る室がなかった。ところへ丁度、李が住んでるアパートの春日荘に室が一つ空いたので、李はむりやりに別所を引入れてしまった。その約束の日、李は突然私のところへ電話をかけてきた。
「……こんど、別所君が僕のアパートへ来ることになりました。先生はここのおばさんに大変信用があるから、別所君の保証人になることを、一言いって下さい。いま、おばさんとかわります。」
 そして電話口の声は消えて、しばらく何か話声が伝わってきた。――実は私には全くだしぬけのことで、何の前触れもなかったのだが、然し別所に保証人がいるなら、なってやってもよいという気持は当然起った。私は春日荘の主婦の椿正枝とは古い知りあいで、そのしっかりした気性や多年の未亡人生活の苦闘に、ひそかに敬意を表しているのだった。
 暫くすると、電話口には正枝の声が響いてきた。李の友人の別所次生という人を知ってるかというだけのことで保証人というようなことはなにも出ず、話はすぐ先方から変えられて、近頃の無沙汰だとか健康のことだとか、普通の挨拶に終ってしまった。李から呼び出されて正枝に挨拶させられた、それだけの恰好だった。私は電話口から離れながら苦笑を洩した。
 かくして、別所は春日荘の一室に納まり、校正係という一定の職業を持ち、沢子との恋愛も得て、まあ幸福な生活にはいりかけてると思えるのだった。
 ところで、これは後で私が椿正枝から聞いた話だが、別所はつまらないことを気に病んでいた。春日荘の東側にちょっとした空地があり、そこに、建物から二メートルばかり離れて椿の木が立ち並び、その謂わば青葉垣の外の狭い地面に、正枝は花卉や野菜などを慰みに栽培していた。その地面の先は低い崖で、ずっと低地になっていた。そちら側の二階に別所の室はあったので、さまで高くない椿の立木ごしに、低地の屋根並が見渡せた。それらの屋根の一つの下に、斜めに見える室があって、雨戸があるのかないのか、とにかく板戸を閉められたことがなく、いつも硝子戸のままになっていて、而も夜通し電灯が明るくともっていると、別所は云うのである。
 すべて節約の時代だから、もう夜の十二時すぎになると、屋根並は一面の闇に沈んでしまい、ただ遠くにぽつりと二つ三つ、何かの柱頭の裸灯が見えるきりだった。その闇の中にただ一つ、凡そ十軒ばかり先方の屋根の下に、明るい室が宙に浮いたように見えるのである。その灯火は朝まで消されることがない。而も、人影一つささず、明るいまま静まり返っている。その室には一体、誰か人が住んでるのであろうか。住んでるとすれば、夜通し何をしてるのであろうか。――別所はそれを気に病んでいた。
 李がそれを知って、また独特なことをやってのけた。李の室は他の側にあったが、別所の室から問題の家を見定め、その辺の町筋を探査して、そして或る夜更け、その家の前で、「二階の灯火を消して下さい、夜通しつけ放しにしないで下さい、」と叫んで、駆け戻って来た。それを三晩も繰返したというのである。そのためかどうだか分らないが、灯火は早くから消されるか、或は雨戸が閉められるかして、とにかく、夜通し明るい室は見えなくなった。そのことを自慢にして、正枝をわざわざ別所の室に引ぱって来て、闇に没してる屋根並を眺めさせながら、あの辺だったと説明してみせた。
 この話、如何にも李がやりそうなことだと微笑まれるのだっ
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