いうものがないんです。精神を打ち込める職場というものがないんです。文学といったような空漠たるものでなく、もっと直接当面の職場です。それがどこにも発見出来ない悲しさです。この悲しさはなんだか、普通のものと質のちがったもので、ともすると、深い憂鬱か烈しい強暴かに変りそうな危険があります。そのことを、この鉄の鎖のぶらんこの上で考えていましたが、なんだかいい気持になってきました。」
「いい気持に……。」と私は繰返した。
「いい気持です。考えつめて、もう考えまいというところまで来ると、いい気持です。」
 私はそれにはっきり同感が出来ず、然し何か心を打たれて、我知らず立上った、そして夜気を吸いながら煙草に火をつけると、別所も同じく煙草を吸いだした。
「まあゆっくり話そうよ。僕の家に来るんだろう。」
「もういいんです。ここでお逢いしましたから、また伺います。もう何時でしょう。」
 用件以外の時には私はいつも時計を身につけていなかった。感じからすればもう一時頃になっていたろうか。
 そして私は別所と別れたのであるが、酔っていたからよく覚えていないけれど、大体右のような会話だったと思うし、最後の彼の言葉はへんに頭に響いた。
 その夜、これは後で知ったことだが、野田沢子がじみな和服を着て別所を訪ねて来、別所の不在をきいて眉をひそめ、用があると昼間から打合せてあるのにと云い、帰りを待つとて李の室にあがりこんだ。それから二人で正枝のところに来て、賑かにトランプなんかして、十時すぎに沢子は帰っていった。別所と沢子は許婚の間柄だと李が吹聴していたものだから、正枝は沢子を好遇していたし、その晩も、菓子や果物などでもてなしたのだった。
 ところで、不思議な事件のことだが、それ自体はさほど重大なものではない。それを最初に見つけたのは李であった。李は時折早起きしては、アパートの東側の崖上の空地に出て、朝の冷気のなかで、陽を浴びたり体操の真似事みたいなことをしたりして、少時を楽しむことがあった。その朝も彼は早く起き出して、どんよりした曇り空ではあったが、空地に出て行き、暫く歩いてるらしかったが、俄に駆け戻ってきて、女中のキヨに手真似で変事を知らせ、正枝の室の扉を打ち叩いて叫んだ。
「大変です。早く起きて下さい。赤ん坊の死体がころがっています。」
 うとうとしていた正枝は、赤ん坊の死体ときいてびっくりし、
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