、京城へ行った。覚悟をきめて働き通し、数年後東京へまい戻って、製菓会社に勤めていた。刑余の身をこうして無事に暮せるのも、其後の正しい決心の賜物だというのだった。そしてただ一目茂樹に会いたいと、始終探しているのだった。
 云うことは正しく、調子は鄭重で、態度は卑屈だった。僕は変にちぐはぐな印象を受けて、初めの反感が消えなかった。それで思いきって――そうでなくとも僕の性質としては同じことをしたろうが――茂樹親子の境遇をぶちまけ、茂樹の精神状態まで話してきかした。
「どうしても、逢ってはいけないものでございましょうか。」と彼は云った。
「時機があると思います。その時が来たら僕が取計らってあげましょう。ただ、今すぐはいけません。」と僕は云いきった。
 その時の僕の態度を、小鈴はあとで、まるで裁判官のようだと云った。然し僕は、彼の過去の行為を責める気は少しもなかった。ただ、現在の彼に対して、何かしら腹に据えかねるものがあった。それは殆んど動物的な感情だったかも知れない。
 それから一ヶ月ばかり、竹山茂吉からは何の消息もなかった。そして突然、昨日電話があって、今晩、先程のあの料理屋で逢った。
 茂樹がもっていったあの拳銃を、君はどう思ったかね。あれは、竹山茂吉から僕に預けた品なんだ。彼はこんな風に云った。
「あの後で、私はいろいろ考えましたが、結局、茂樹に逢うことは到底出来ないような気が致しました。絶望のあまり、今迄の生活も無駄だったように考えまして、朝鮮からもってきたこの拳銃で、自殺しようと思いました。その決心の最中に、たまらなく淋しくなりました。笑って下さい。どうせ死ぬなら、茂樹の手にかかって死にたいと、それが最後の希望になりました。刑務所内で、茂樹にも一度逢いたいと考えたのと、同じ気持でした。母親……前の妻……のことは、殆んど心にかかりませんでした。ただ、茂樹のことだけでした。血のつながりというものは、恐ろしいものです。とてもこのまま一人では死ねないと考えまして、この拳銃はあなたにお預け致します。一目でもよろしいですから、茂樹に逢えるまでは預っておいて下さいませんか。そうしないと、私は自殺ではなく、ほかに何か恐ろしいことを仕出来しそうな気が致します。」
 僕はそこに、常識とか理性とかをのりこして、最後のところまで押しつめられた魂を見てとった。決して手段や策略はなかった。心からの欲求なんだ。一歩の差で、どんな善行にもどんな悪行にもなりそうな堺目なんだ。そして顔には、或る云い知れぬ輝きがあった。僕はそれに逆らわないで、拳銃を預ることにした。
 それでも、彼に対する最初の動物的な本能的な反感は、どうしても消えなかった。それは単に彼の容貌や態度から来るものではないらしい。この点では、竹山茂樹の好悪の研究など、浅薄なものとなる。それよりももっと根深いものなんだ。
 僕は両方の気持に板挾みになって、それでも、彼の慾求に逆らえなかった。近日中に茂樹に逢えるように取計ってやろうと約束した。
 彼が[#「彼が」は底本では「僕が」]帰ったあとで、僕は底の知れない夢想に沈んだ。酒をのんだ。それからふと思いついて、茂樹の母親へ、料理物を届けてやった。あの母親のことを考えると、何かしら気持がやわらぐのだ。
 それから、君達が来て、あの通りの仕末だ。竹山の敏感さにも驚かされる。スパイだのハラゴンだの、見当はちがっていたが、とうとうあの拳銃を見つけてしまった。
 だが、僕はもうわりに楽観している。父親が心をこめたるあの拳銃だ。それが何かの影響を竹山に及ぼすかも知れない。感応だの、霊感だの、そうした超自然的なことは信ぜられないとしても、父親の指跡の残ってる鋼鉄が、或は単に鋼鉄が、彼になにかよい影響を与えるかも知れない。
 愛するものには、そうした空想も許されるだろう。

 川村さんはそこで話をうちきった。
 ここで一寸断っておきたいのは、実は右の話の中途に、小鈴がやって来ていたのである。川村さんの話の腰を折らないために、筆者はわざと黙っておいたが、一時話が途切れて、三人の間に短い対話があった。小鈴は良一に向って、いきなり、先日は……と挨拶をした。川村さんの家の時とちがって、彼の表情がひどく自由で活溌だった。がやがて、川村さんはまた話を続けて、小鈴の存在をまるで気にかけない調子に戻った。小鈴は黙ってお酌をしていた。
「愛する者には、そうした空想も許されるだろう。」と最後に云って川村さんが口を噤んでしまった時、良一は実に変な気がした。小鈴はじっとうつむいていた。額に勝気らしい嶮があり、口もとに大まかな愛嬌があって、すずしい小さな眼をした、大柄な顔立だったが、その真白な顔が電燈の光を斜に受けて、何かじっと考えこんでいるらしいのを見ると、良一は気懸りになった。竹山たちよりも、川村さんや小鈴の方が何となく危険だという気がした。
 川村さんはやはり竹山のことを考えていたらしく、ふいに云いだした。
「どうなろうと、大したことはあるまい。近日中に逢わしてやろう。その時は、牧野君もいっしょに来てくれないか。一人でも多く立合った方が、互の打撃が少いかも知れない。うまくいったら、あとでゆっくり逢えばいい。まあなるようになるだろう。人の運命というものは、大きな深い河に流されてるようなもので、自然の勢に任せるより外はない――とそういうことを、竹山の母親は云った。そうだ。こうなってみると、あの母親が一番えらいような気がする……。」
 その時、小鈴が不服そうな顔をして云った。
「だけど、いくじがないわね。」
「そりゃあ、君たちみたいな稼業をしてる人とはちがうさ。」
「それもそうだけれど……。」そして彼女は一寸考えた。「おかしいわ、あの竹山のお父さんの方、どうして、前の奥さんには逢おうと云わないんでしょう。あれでも、極りがわるいのかしら。」
「そんなことはないさ。だが、実はそれなんだ、問題は……。細君にはどうでもいいが、子供には逢いたい……そこが何だかちがってる。」
 言葉がとだえると、良一は落付けなかった。それをみて、小鈴は酒をすすめた。
「そうだった、今日は僕の回復祝いだ。出かけよう。知ったところをみんな廻ってやるんだ。」
「だめよ、もう遅いから。いけませんよ。」
 小鈴は頭ごなしに押えつけようとしたが、川村さんは駄々をこねだした。話をしながら飲んでいたその酒が、話がすむと共にいちどに発してきたものらしい。小鈴は叱るようにしてなだめるし、川村さんは駄々っ児のようにむちゃを云いだした。
「ごらんなさい、牧野さんが笑ってるじゃありませんか。」
「ははあ、牧野君か、飲んでくれよ、僕の回復祝いだ。」
 良一は川村さんのそんなところを初めて見たし、一昨日まで高熱でねていた川村さんのことを思いだしたりして、不思議な気持になると共に、いつしかもう酔っていた。そして自動車で家へ送りとどけられたのは、三時近い頃だった。

 十日ばかり過ぎて、良一は川村さんから速達の葉書を受取った。――この葉書読み次第、電話をかけてほしい。とそれだけの、如何にも川村さんらしいものだった。
 良一は竹山のことが気になっていたので、近くの自働電話へかけつけていった。川村さんが電話へ出て、隙だったらすぐに来いとのことだった。
 行ってみると、川村さんは二階の書斎にねそべって、何の屈託もなさそうな様子をしていた。小鈴が来ていて、やはりこの前のような束髪で、はでではあるが素人らしいみなりをしていた。彼女も朗かな顔付だった。
「やあ、こないだは……。家に帰って、叱られやしなかったかい。」
 むっくり身を起した川村さんは、言葉の調子にも似ず、そして屈託のなさそうな様子にも似ず、何となく元気がなかった。
「実は、竹山のことを君に報告しようと思って来て貰った。思いがけない結果になったものだから……。」
 その結果というのが、良一には想像もつかないことだった。――
 あれから、川村さんはどういう風に竹山父子を対面させようかと思いあぐんで、一日一日延していた。すると、この前の日曜の午後、竹山茂樹がやって来た。
「先生、研究が完成しました。すぐに来て下さい。」
 その、語尾が曇って、眼は全く据ったきりで動かなかった。そして靴のまま座敷にあがりこんでいた。
 川村さんは首を傾げたが、とにかく、訳をたずねてみると、最も嫌いな最後の一つの顔が、写真にとれたというのだった。而も何枚もとれた。大勢のスパイが出て来て邪魔しようとしたが、遂に勝利を得た……。
 川村さんはぎくりとした。竹山を連れて自動車を走らせた。
 家の中はしいんとしていた。上りこむと、母親が真蒼な顔をして、彫像のように坐っていた。
「どうしたんですか。」と川村さんは声をかけた。
 彼女はなかなか返事も出なかった。恐らく心は深い淵の中へでも落込んだようで、浮出してくるのに骨が折れたのであろう。ようやくにして彼女は挨拶をして、それから話し初めた。
 その日は、穏かな好天気だった。竹山はいつのまにか、母親が隠しておいた例の写真器をとりだして、ひそかに出ていったらしい。そして二三時間たつと、表から勢こんでとびこんできた。
「お母さん、喜んで下さい。研究が出来上りましたよ。これから川村先生をよんできて、いっしょに現像するんです。」
 そして彼は写真器を自分の室の卓子の上において、また飛びだしていった。
 母親は不安な予感に駆られた。騒ぐ胸を抑えてじっとしていると、茂樹が出ていってから暫くして、のっそりはいりこんできた男があった。一目見て、彼女はあっと声を立てた。夫の茂吉だった。
 茂吉はつっ立って、彼女を見据えていた。彼のうちにはひどく狂暴なものきり認められなかった。
「お前は、茂樹を、よくも立派に育てたな!」
 その一言が、彼女のあらゆる感情を押し潰してしまった。
「茂樹の居間はどこだ?」
 彼女には返事が出来なかった。身動きも出来なかった。
 茂吉はつかつかと横手の室にはいっていった。物をぶっつけ破壊する激しい音がした。それから暫くひっそりとなって、やがてそこらをかきまわす音が続いた。
 長い時間がたったようだった。声をかけられて彼女が顔をあげると、茂吉は死人のような顔色でつっ立っていた。手に小さな拳銃と小さな紙箱とを持っていた。
「これはどうしたんだ?」
 彼女もびっくりした。それはまるで見覚えのないものだった。が彼女がもっと驚いたことには、茂吉の声はもう張りがなくて震えていた上に、拳銃をもってる手がわなわなとおののき、その眼から、はらはらと涙が流れだしたのだった。彼は拳銃をもってる手の甲でその涙を拭いた。そしてなおつっ立っていた。膝頭の震えるのが見えた。それから突然、彼はぎくりとしてあたりを見廻し、逃げるように出ていってしまった。最後に振向いて唇を動かしたようだったが、彼女の耳には何の言葉も達しなかった……。
 彼女は一人残されて、全身麻痺したように坐り続けていた。そこへ川村さんと茂樹とがはいって来たのである。
 なお、後できき合して分ったことであるが、竹山の家から程遠からぬ処で、幾人もの人が不思議な光景を見たのだった。そこの広い街路の片端で、五十年配の男が、突然棒のように立止った。いつまでも棒のようにつっ立って、真直のところを凝視し続けている。その視線を辿ると、多少その辺で気が変だと知られていた竹山茂樹が、コダックを胸にかかえて、つっ立ってる男を写真にとってるのだった。一枚写し終えると、此度は方向をかえて写し、二三枚の写真をとった。その間、男は全く棒のようにまた殉教者のようにつっ立っていた。最後に茂樹は、男の方へ一瞥をなげて走りだした。男もその後を追って駆けていった……。
「僕がぐずついてたので、竹山の父親はまちきれなくて、やたらに歩き廻ってたものと見える。」と川村さんは云った。「然し、二人を対面さしたところで、結果は同じだったかも知れない。或はもっと悲惨な結果になったかも知れない。竹山の頭の中の幻影は、もう父親を見分けることを許さなくなってたらしい……。」
 川村さんが竹山
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