きた貞操を――僅かな金銭のために、自分でふみにじろうとしていたのだ。それが、子の胸にもひしとこたえた。而も、長い間、悲惨のうちにも頼りきり愛しきって、崇拝に近い感情を寄せていた母親なのだ。
 彼はその晩まんじりともしないで、幼い時からのことを考えなおしてみた。そして、悲しみの余り疲れて寝入ってる母の顔を、つくづく眺めた。それは神々しい顔だった。
 彼は[#彼は」は底本では「僕は」]そっと起きだして、古い手文庫を持ちだし、中の写真をしらべてみた。母の写真が幾枚かあり、父の写真も二枚ほどあった。彼はそれを見比べた。それから、釘をとってきて、父の写真のあらゆる輪廓や顔立の線を、ぶすりぶすり突き刺した[#「突き刺した」は底本では「突き剌した」]。二枚の写真は、釘の穴だらけになって寸断された。悪夢を見てるような気持だった。
 突然、とほうもない大きな声がして、彼は我に返った。母が泣いている。振向いた彼の顔を見ると、畳につっ伏して泣いた。悲しいというよりも、苦痛にたえないような泣きかただった。
「あんな泣きかたを、私は嘗て見たことがありません。」と彼は話した。
 その時から、彼の頭の中で、父の面影と母の面影とが、全く相対立したものとなって分離したらしい。母の面影でさえ、もう現実の母の顔から遊離してしまった。そして彼は始終その二つの面影を見つめるようになった。一つは悪魔であり、一つは神であったろう。
 こう云えば、彼というのが誰だか、もう君にも分った筈だ。あの、竹山茂樹なんだ。
 竹山の話をきいて、僕はその家を訪れてみた。惨めな生活らしい様子だった。その頃、僕には多少余裕があったので、高利の負債の方は払ってやった。それから、竹山の家が丁度この土地の花柳界のそばなので、懇意な芸妓にわけを話して、平素着の仕立直しだのつまらない物の手入れなどを、出来るだけ頼むように計らってもらった。
 母親の方は、それでまあどうにかなったが、困ったのは竹山だ。学校の給仕も勤まらなくなり、勉強も出来なくなった。別に精神に異状があるようにも見えないが、それかって普通とはちがっていた。初めは家に引込んで、へたな絵ばかり書いていたが、或る時、月末の金をひっさらって、写真器を買いこんできた。それから、君も見せて貰った通りの、その写真マニアだ。好悪の容貌の研究という理論だ。
 写真器をもち歩いて、やたらに人の顔ばかりうつすものだから、警察の厄介になったことも二度ばかりある。母親からの知らせを受けて、僕が貰いさげてやったが、真実の精神病者でないという説明には弱った。一更になお、彼を説服してその所謂研究をやめさせることは、到底僕の力では出来そうもなかった。警察に連れて行かれたりしたために、彼はばかげた幻影を描いて、自分の研究を邪魔しようとしてる者があると想いこみ、始終スパイにつけねらわれてると考えるようになった。
 時機を待つ……或は何かの機会を待つ……それより外に方法はないと思って、それまでのつもりで、ごく僅かなことだが、僕は母親の生活を時々助けてやっている。
 ところで、話は少し前に戻るが、竹山のスパイの幻影とならんで、も一つの幻影が描き出されるようなことになった。

     六

 神明町の崖の上に、もと木戸さんの邸内だったところに、ひどく美事な椎の木がある。それが……ほう、君はもう伯父さんから聞いたのか。実はそのことなんだ。散歩の折、ふと眼についたのだが、僕はとても好きになった。木に惚れこむなんて、おかしいだろうが、古人は、木や石を神にまで祭りあげたことさえある。
 僕はその後度々その椎の木の方へ散歩の足を向けた。百坪ほども枝葉をのばして、こんもりと茂ってる、その若々しい大木を見るのは、何とも云えない喜びだった。するうちに、だんだんその木がほしくなって、そのあたりの更地三百坪余りを管理している人のところへ行き、どれほどの値段かなどと、勿論買えやしないが、試みに聞きに行ったものだ。ところが、その家の息子に顔を合わせると、どうだろう。僕の学校の卒業生で、而も僕が教えたことのある男なんだ。
 座敷に引っぱり上げられて、いろんな話をし、あの椎の木が好きなことなど、笑い話にもち出したところ、先生なら……ということで、土地の買手がつくまでの条件で、椎の木のところ百二十坪ばかりを借りることになってしまった。そして、子供たちがはいりこんで木に登ったりして遊んでいるのが、木にさわるだろうというので、鉄条網をめぐらしたり、植木屋に手入をさしたり……他人から見たら正気の沙汰ではなかったろう。だが、僕はどんなに嬉しかったか知れない。その上、その木が市の指定木になっていて、個人の勝手にはならないので、そんな不自由な土地を買う者もなかなかあるまいから、僕がもし買うようなら、相当の便宜をはかって貰えることにもなっていた。買えるような金は到底なかったが、然し買うことも出来るということは嬉しい希望をもたらしてくれる。
 僕は、恋人にでも逢いに行くような気持で、その椎の木を見に行ったものだ。木戸の鍵をあけて中にはいると、頭の上すれすれに、椎の枝葉が、百坪ほども伸び拡っているのだ。それは青葉の殿堂で、美しい日の光の斑点が天井一杯に戯れているし、凉しい風がかなた田端辺の高台から吹いてくる。
 そして或る時、途中で竹山に出逢ったので、彼の頭にはよい影響を与えるかも知れないと思って、その椎の木のところへ連れていった。果して、竹山の喜びかたは大変なものだった。幹に手を廻してみたり、低い枝に登ってみたり、青葉天井に見入ったりして、ただ感歎し続けていた。新たに眼覚めたようないきいきとした光がその眼にあった。
 僕は彼に木戸の合鍵をやって、いつでもはいれるようにしてやった。
 彼は殆んど毎日行ったらしい。そしてその頃が、彼の頭の調子も最もよかった。
 それまでは無事だったが、実はもう、そんな呑気なことをしながらも、僕の経済状態は破綻に瀕していた。少々てれる話だが、この土地の小鈴という芸妓と、いつのまにか深くなって、もうどうにもならないほどお互に愛し合っていた。そのために、可なりの金を使っていた。そこへ、或る義理合から、可なり多額の借金の連帯保証人となっていたのが、本人の歿落のために、すっかり僕へかぶってきた。学校の俸給と僅かな文筆の収入とでは、もうおっつかなくなった。負債の利子さえも払いかねた。そこで、椎の木――月に三四十円の借地料だが――それをも切りつめようとした。
 竹山には気の毒だが、仕方がないので、そして彼の母親への立場もあるので、嘘を言って、椎の木の土地に買手がついたらしいから、近いうちにあけ渡さなければならないかも知れないと、それとなく暗示してみた。
 竹山の精神は、その暗示にひどく敏感に反応した。そして彼特有の鋭い疑念をこめた眼付で、いろんなことを尋ねはじめた。僕がいい加減にごまかしていると、しまいには彼の方から、椎の木の土地を買おうとしている男が分ったと云いだした。
「原野権太郎という男ですよ。」
 僕はあっけにとられた。何処に住んでるどういう男か分らないが、とにかく原野権太郎という男だというのである。彼はそれを後にハラゴンとつづめて云うようになった。
「大事な木です。ハラゴンなんかに渡しちゃいけません。もしこっちが負けたら、私はあの木に、首をくくってぶら下ってやります。」
 ほんとにやりかねない気勢なんだ。これは危い、と僕は思った。ハラゴンなんかに負けるものかと、そんな気持で、実は君の伯父さんに金を相談したり、他にもあたってみたりした。
 原野権太郎……どこから出てきたか分らないその名前が、竹山にばかりでなく、僕にとっても、一種の対抗的存在となっていった。そして僕は、本気で、椎の木の土地を年賦払いで買い取ろうと考えたりしたものだ。
 そうした気持の動きは、君には分るまいが、恋するものにはよくあることだ。僕と小鈴との仲は、恋愛といってもよかった。お互に始終想いあっていた。僕から出かけて行けないと、向うから僕の家にやって来た。僕たちは飽きるということがなかった。こんなに長く続く恋愛を、僕は嘗て知らない。彼女は固より知識の低い女で、僕たちの間には深い精神的なつながりはなかった。然しほんとの恋愛は、そんなものよりも、気分の融和とか、息の香りや肉体の触感、そうしたところにあるらしい。彼女は僕の経済状態もよく知っていた。どうにもいけなくなったら死のう、そういう気持で二人ともいた。そんな場合だったから、椎の木の土地を買おうなどと僕が本気で考えたのも、決して不自然ではなかったようだ。
 まあ大体そういう情況だったところへ、思いもよらない人物が登場してきた。

     七

 或る朝、小鈴から、竹山茂吉という人を知らないかとの電話だった。僕も驚いた。竹山茂吉というのは、かねてきいていたところによると、竹山茂樹の父親なのだ。
 大体のことを電話できいて、僕はすぐ小鈴にあってみた。
 彼女は前夜、ある大勢の宴会の席に出て、その後で、他の料理屋からかえってきた。行ってみると、前の宴会に出ていた客なのである。黙りこんで酒ばかり飲んでいた。何となくうすっ気味のわるい、もう相当年配の男だった。彼は変にふさぎこんだ様子で、わざわざお呼びしてすみませんと、いやに丁寧だった。それからすぐに、先程の話の竹山という人のことを聞きたいのだとのことだった。
 その先程の話というのが、小鈴の記憶にはよく残っていなかった。――もう宴会も終りに近く、座が手持不沙汰になってきた時、芸者たちだけ四五人集って、なんでも写真の話がでたらしかった。そして写真と素顔とがどうだとかいうことから、小鈴は僕からきいていた竹山茂樹のことを思いだし、写真もばかに出来ないと主張し、百枚近くも生顔をうつしとってる人があると云った。川村さんの知り合いの人だとも云った。ところが、その頃僕は酔っ払うと、しきりに椎の木の話をはじめ、ハラゴンに対する憤慨をのべ、どこのどいつだというような調子だったものだから、それは「椎の木の先生のハラゴンさん」みたいな話だとまぜっ返す者がでてきて、彼女はつい、竹山という実際の人だと口を滑らしたらしい。多少酒のまわってる芸者どうしの饒舌なので、実際のところはどうだったかはっきりしない。
 ただそれだけのことで、竹山とはどんな人かと改めてきかれてみると、小鈴は用心してかかった。が先方は、自分だけの考えに耽っているらしく、実はこうこういう竹山茂樹という青年を探ってる者で、なおよくその「椎の木の先生」に尋ねて貰えまいかと、返事の日を約束し、名刺を[#「名刺を」は底本では「名剌を」]おいて帰っていったのである。
 もう疑う余地はなかった。僕が自身で逢ってみることにした。
 約束の日の夜、小鈴から電話があると、僕はすぐに出かけていった。
 その時も、先程のあの料理屋なんだ。
 五十年配の男で、短くかりこんだ硬い髪の毛に、さえない白髪がへんに多いのが目立っていたが、眼には妙に沈んだ鋭い光があった。僕はその眼を一目見ると、竹山茂樹の眼をすぐに思いだした。それは狂人と犯罪人との中間の眼だ。次に僕の心を打ったのは、狭い額や、ふくれた頬や、短い※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]など、全体の丸い輪郭と、太い鼻とだった。竹山茂樹の写真の配列法に随えば、最も嫌いな部分に置かれる顔立だった。そして古ぼけた洋服に、金鎖をからませていた。
 そういう男に対して、僕がどんな感情を懐いたか、君にも想像がつくだろう。それは反感に近いとさえ云えるのだった。僕は冷決な態度をとった。先方はばかに丁寧に、わざわざ卑下してるかと思えるほど卑屈だった。然しそれにも拘らず、話は直ちに用件にはいっていった。実子の竹山茂樹に一目逢いたいとの一心で生きているので、もし御存じだったら願望をかなえさして頂きたいと、そういうのだった。
 それから彼は現在の境遇を話した。大阪で女を殺害しかけてつかまった時、その少しまえに犯した詐欺まで発覚して、三年半の刑期をつとめなければならなかった。出所後
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