せられていたのだが、川村さんは一人でのんきに酒をのんでるのだった。一昨日まで高熱でねていた川村さんが、髯をそってさっぱりした顔付になって、元気そうに若々しくなってる。それだけの変事にすぎなかった。
 ところが、竹山と川村さんの対話が、まるで謎みたいなものとなっていった。女中が出て行くと、竹山は拳をにぎりしめて口を開いた。
「もう帰りましたか。」
「誰が……連れの人か。」
「ええ。」
「さっき帰ったよ。この通り僕一人。」
「ほんとうですね。」
 念をおしておいて、竹山は室の中を見廻した。
「スパイだったんですか。」
「いいや、ちがうよ。」
「ハラゴンですか。」
「いいや。君の知らない人だよ。」
「それじゃあ、大丈夫ですね。」
「心配することはないよ。」
「研究も、椎の木も、無事ですね。」
「無事だとも。安心し給え。僕が請合ってるから大丈夫だ。」
 竹山は安堵したように息をついて、にっこり笑った。
「万一の時には、私がついていますから、心配はいりません。」
「ははは、そう気をもまんでもいいよ。」
「然し、先生は、どうも呑気だから、うっかりするとひっかかりますよ。」
「そこは、注意してるよ。」
「用心していて下さい。」
「ああ、大丈夫だ。まあ飲めよ。」
 そして、不思議なことには、竹山が落付いてくるにつれて、川村さんの方が何か気懸りらしく、竹山の様子をそれとなく観察しだしたのだった。それと共に、妙に考えこんで、憂欝な影が眼の中にさしてきた。
「どうだい、お母さんは……。」
「ええ、母は……。」
 云いかけて竹山は、ふいに思いだしたように、あらたまってお辞儀をして、先刻の届物の礼を述べた。
「ほんとに喜んでいました。涙ぐんでいました。……そうだ、私を待ってるんです。もう用はありませんね。」
「まあ飲んでいけよ。」
「また来ます。母が待ってるんです。」
 そして竹山は、も一度室の中を見廻したが、立上ったとたんに、違い棚の方へ眼をつけて、つかつかと寄っていった。その時、川村さんははっと顔色をかえた。
「それ、いけない。」
 川村さんが叫んでつっ立った時、竹山の手には、違い棚の上の小さな袱紗づつみが握られていた。
 とっさの出来事で、良一には訳が分らなかったが、やがて川村さんが諦めたように席についた時には、竹山の手の中で、袱紗づつみがとけて、小さな拳銃が光っていた。彼の眼は全く狂人らしく没表情にこわばって、その眼には底知れぬ疑惑の念がこもっていた。
「まあ坐り給え、話してあげよう。」
 川村さんの声には、先刻の慌てた様子とちがって、人を威圧するようなものがあった。
 竹山は拳銃を握ったまま、黙って席についた。
「それは、さきほど、或る人から預ったものなんだ。その人は、大変悲しいことがあって、自殺しようとまでした。然し思い返して、不用になったその拳銃を、僕に当分預けた。僕にとっては、それは大事な預り物なんだ。嘘ではない。君は僕を信頼してるなら、その信頼にちかって、嘘は云わない。信じてくれ。」
 その、川村さんの言葉には、心からの誠実がこもっていた。それにうたれてか、竹山は静にうなだれていた。それからきっと顔を上げた。
「私に預らして下さい。」
 二人はじっと眼を見合った。魂と魂とがじかにふれあうような見合いかただった。
「よろしい。」とやがて川村さんは云った。「その代り、誓ってくれるだろうね。君の全心をあげて誓ってくれ。それを決して使わないで、ただ預っておくだけだと……。」
「よく分りました。誓います。」
「お母さんに対する君の心にかけても、誓うかね。」
「はい。」
 厳粛だとさえ云えるほどの情景だった。良一は心打たれてただじっと坐っていた。川村さんと竹山とは、いつまでも黙っていた。やがて、竹山はふいに、眼をくるくるさした。
「母が待ってるから、行ってやりましょう。」
 そしてもう彼はけろりとして、無雑作に拳銃を弾丸《たま》らしい紙箱と共に袱紗にくるんで、ポケットにつっこんだ。
「お母さんによろしく。」
「ええ。」
 竹山は朗かな微笑を浮べて、出て行った。
 川村さんはその後ろ姿を見送ったきり、黙って考えこんでしまった。いつもの呑気な調子とはすっかり違っていた。良一は何とも言葉が出なくて、火鉢の火を見つめていた。暫くたって、川村さんは一つ大きく息をしてから、杯をとりあげ、不思議そうに良一を見まもった。
「君は、竹山と前から懇意なのかい。」
 川村さんの眼にはもう、穏かな色がただよっていた。それを見て、良一はかすかな微笑を浮べた。
「今日知り合になったばかりです。」
「今日……。」
「ええ。」
 そこで良一は、川村さんの家の前で竹山に出逢った時からことを、あらまし話した。
「そうか、そして君は、あの男のことをどう思う。」
「どうって……。」
「正直だと思うか、それとも、少し変だと……。」
 良一は返事に迷った。そしてふと、川村さんに対する伯父の言葉を思い出した。
「尤も、変だと云えば、僕だってそうだが……。正気の沙汰じゃないと云われたことがある。」
「誰にですか。」
「たしか、君の伯父さんだった……そしていろいろな意見をされた。」
 良一はぽかんとした。川村さんは苦笑していた。
「実は……今日、伯父に相談にいってみたんです。」
「相談だって……。」
 良一は仕方なしに、金策のことを伯父に頼みにいったことを、そしてうまくいかなかったことを、うちあけた。
 川村さんは笑いだした。晴れやかな笑いだった。
「それゃ、駄目だよ。僕の方が先に話しちゃった後だからね。どうも、不思議なまわり合せだね。伯父さんのところへ行って、それからまた竹山に逢って……。」
 川村さんは急に顔を曇らせた。そしてひどく真面目な調子になった。
「これも何かの縁だ。君にすっかり話してあげよう。だが、もう遅いし、ここの家じゃ迷惑だろうから……構やしない一緒に来給え。」
 川村さんは勘定をすました。その時、女中がそっと云った。
「あの……もうじきに参る筈ですが……。」
「なにいいよ。この人と少し話があって、ほかに寄ることになったから、そちらで……。」
「では、そう申しておきましょう。」
 良一は気になった。
「誰か、お連れでもあるんですか。」
「うむ……あるような、ないような……。」
 川村さんは朗かに笑っていた。

     五

 良一がつれられていったのは、待合の一室だった。しんみりと落付いた室で、酒をのみながら、川村さんの話をきいた。

 僕のつとめてる学校の教授室に、若い給仕がいた。後で分ったことだが、中学二年を卒えたきりで、長らく勉強を中絶していたところ、学校の給仕になってから、また勉強をはじめて、中学卒業の検定をとるつもりだった。隙があると書物ばかり読んでいた。
 僕はその男に好感がもてた。先方でも僕を好きだとみえて、僕が著わした小さな詩集に署名を求めたこともあった。僕が時々書く詩だの随筆だのは、見当る限り読んでるとのことだった。
 人間の好き嫌いというものは妙なもので、どこがどうと取立てて云うことも出来ない。まだ漠然とした気持の上の事柄だ。僕はその青年が何となく好きだったし、先方でも僕を何となく好きだったらしい。僕は週に三回きり出ていなかったが、時々話をしたり、一寸した質問に応じてやったりしてるうちに、ひどく親しい気持になっていった。
 そして、一年ばかりすると、彼は前から余り快活な方ではなかったが、急に目立って、顔色が悪くなり、神経質になり、憂欝になってきた。身体を大事にするように、度々注意してやった。彼はどこも悪くないと答えて、淋しい微笑を浮べるのだった。そして休むことが多くなった。
 或る日、僕は彼の様子を見てびっくりした。丁度一時間ひまがあって、教授室で書物をよんでいたのだが、その間、彼は自分の卓子に両手をくんでよりかかって、じっと眼を宙に据えている。顔は総毛だって、さわったら石のように冷たそうだ。いつまでも同じ姿勢で動かない。その、宙に据って何にも見えない眼には、不気味な光がただよっている……。
 僕はたまらなくなって、どうかしたのかと尋ねた。彼はけげんそうに顔を見上げたが、ふいに、にっこり笑った。そして、もう何もかも駄目だと云う。その笑いかたと言葉とがまるでちぐはぐで、調和がとれないんだ。心配なことがあるなら、うちあけて話してみないかと、僕はやさしく云ってやった。彼は暫く考えていてから、急につっ立って、聞いて下さいますかと、烈しい語調なんだ。
 その夕方、約束どおり落合って、僕は彼を鳥屋に案内して、夕食をおごってやりながら、話をきいた。話の調子が少し変で辻褄の合わないところもあったが、大体次のようなことだった。
 十年ほど前まで、彼の家は相当に裕福で、父親は或る百貨店の係長の地位を占めていたが、ふとしたことから、赤坂の芸妓に深くなって、めちゃくちゃな生活に陥ってしまった。そしてせっぱつまった揚句、その女と大阪に逃げだして、一年ばかりどうにか暮していたらしい。それから、よく分らないが、その女がまた芸妓に出たとか、或はどこかに勤めに出たとか、まあ堅気な暮しはしていなかったらしいが、情夫をこさえて、彼を顧みなくなった。彼はかっとなって、女を殺そうとして、仕損じて、つかまった。
 そうした父親の行跡が、彼と彼の母親の生活に、どういう影響を与えたか、君にも大凡想像出来るだろう。負債と屈辱……、肩身せまく世間を渡りながら、彼は中学二年までは修了したが、もう後は学業も続けられなくなった。夜逃げ同様にして何度も移転した。それでも、母親と彼とは一緒に住み続けた。別々の暮しが出来なかったのだ。そうした悲惨のなかに於ける母と子との愛情がどんなに強く深かったか、心ある者には分る筈だ。助力をあおぐ親戚とて殆んどなかったので、二人の心はなお深く結びついた。
 母親は針仕事をなし、彼は小さな工場の事務見習に通勤した。そのうち彼は肋膜を病んだ。解雇と療養……。生活はどん底に陥った。近所の人の世話で、借金を拵えた。その借金がまた不幸の種だった。彼は回復して、僕の学校の給仕にはいることが出来、新たに奮発して、中学卒業の検定試験を受けようと勉強をはじめ、母親もほっと息をついたところ、六ヶ月期間の借金――それも二百円だが――それには、期限後は損害賠償の意味で、日歩二十五銭という高利の条件がついていた。二百円の利子十五円を毎月払うことが、彼等にどうして出来よう。そこへ、彼の母親に対して、半ば強請的な再婚の勧誘だ。再婚と云えば体裁はいいが、何でも或る老人相手の、妾とも世話人ともつかないような話だったらしい。彼女はもう四十近くなっていた。見たところ一寸上品な若さのある顔立が、いけなかったらしい。世間というものは、搾取価値のあるものは決して見逃さないのだ。
 彼女は最後の覚悟をきめた。そして彼に向って、それとなく意中をうちあけた。そうした時、彼女がどういう言葉使いをし、どういう云い廻しをしたかは、普通の人にはとても分らない。彼は僕にその時のことをこう云った。
「母は少しも悲しそうな様子を見せませんでした。切ない眼色も見せませんでした。そして世間話でもするような調子で、人の運命というものは、大きな深い河に流されてるようなもので、※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]けば※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]くほど溺れるばかりだから、じっと流されていった方がよいだろうと、そんな風に話をしました。はっきりした事柄は一つも云わないで、よく分りよく腑におちるような、そうした話しかたでした。他人の噂さのような云いかたをして、その次に一言、わたしたちだってそうでしょう、と云いそえるのでした。ああ、わたしたちだってそうでしょう。たったその一言で、全体の話が実はわたしたちだけのことだと分るのでした。その言葉を云う時、鬢のほつれ毛が、こまかく震えていました……。」
 僕にはその時の情景が眼に見えるようだ。母は今まで守り通してきた貞操を――それも夫に対してではなく、子の名誉のために守り通りして
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