すかし見て云った。
「川村さんをお訪ねなさるんですか。」
良一は黙っていた。
「只今、お留守ですよ。」
良一がなお黙っていると、青年は鋭い眼付で見つめながら寄ってきた。
「もう一時間ばかりすれば、帰ってこられます。僕も先生に逢いに来たんです。ここで待っていても仕様がないから、一緒にお茶でものみにいきませんか。」
別に危険な人物でもなさそうだったので、良一はつき合うことにした、或はそれが伯父の話の男かも知れなかった。或は川村さんが逢うことをきらってる男かも知れなかったし、それならば、それをはぐらかすことは川村さんのためになるにちがいなかった。
良一は彼と並んで歩きだした。彼は既に行先がきまってるかのように、黙ったまま良一を導いていった。長髪をかき乱した浅黒い横顔。じっと据ってる眼付、すりきれた外套に破れかけた古靴、そしてへんに足が早かった。
だいぶたってから、彼はふいに云った。
「あなたは、川村さんとどういう関係の人ですか。」
良一はありのままを答えた。遠縁にあたるので昔から知っていて、時々遊びにくるんだと。
「それじゃあ、牧野さんですか。」
名前を云われて、良一は少し驚きもし、安心もした。自分の名前を知ってるくらいなら、この青年は川村さんとよほど親しいのであろう。
川村さんの家のある本郷林町の高台から、上野広小路の方へ、良一は彼についていった。途中、すれちがう人の顔を彼は次第に注視するようになり、そしていつしか彼に話しかけていた。
「……その好き嫌いという感情は、決定的なもので自分でどうすることも出来ないものです。電車にのっても、一寸見ただけで、好きな奴と嫌いな奴とは、はっきり別れるじゃありませんか。これは、相手の性質とか身分とか、そんなものできまるんじゃない。顔付です。ただ顔付だけです。それも、綺麗だとか醜いとか、色が白いか黒いか、そんなことじゃあない。もっと根本的なものがあります。猫は犬の顔をきらい、犬は猫の顔をきらうんです。それで僕は、そういうことを研究しようと思って、人間の顔を写真にとって歩いています。小さなコダックを胸にかかえて、向うから来る奴を、まず好きか嫌いか見ておいて、それを写真にとってやる。そういう写真を集めて、好きから嫌いへ順々に並べてみると、根本的な研究が出来るんです。ありふれた写真は、大抵にせものが多いから、本当に研究するには、どうしてもまず実物をみておいて、それからありのままの写真をとる、そういうことにしなくちゃいけない。それはいろんな程度があって、微妙な差ですからね。ところがこの、人の顔を写真にとることがなかなか厄介で、技術がいるんです。うっかりしてると通りすぎちまうし、横を向いちまう。邪魔するやつもいる。政府では僕のこの研究をねたんで、警察に内命を下したとみえて、しじゅう探偵しています。僕の一番嫌いな奴が、自分の顔をとられるのをこわがって、密告したんです。然し、きっととってみせます。そいつの顔をとるまでは、僕は頑張ってやります。その写真がなければ、研究が完成しません。川村さんは僕のこの研究に賛成して、いろいろ注意を与えて下さるが、ただ一つ僕の腑におちないことがある。凡ては無限で、宇宙の中に何一つ有限なものはない。だから、どんな研究でも、ある範囲内に止めなければ、永久に完成の期はない、とそういうんです。僕の研究も、もうほぼ完成している、とそういうんです。然しそれは、研究者としては卑怯な態度です。現に、僕の研究を邪魔してる奴がいる。僕の一番嫌いな奴がいる。現実にいる。そいつを一枚とれば、それでいいんです。それから先は架空なもので、想像によるものだから、そこで範囲をきめればいいわけです。もう一歩のところです……。」
良一は少しまいった。好きな方はどうかとききたかったが、どんなことになるか分らないので、黙っていた。青年は一人で饒舌った。間をおいて、考え考え、ただ自分の意見を述べるだけで満足して、良一の意見は求めなかった。
池の端から切通し下へ出て、その向うのこみ入った裏通りの、小さな家の前に、青年は立止った。表に「御仕立物」という看板がかかっていた。
「ここです。」
青年は格子戸をあけて、良一を中に迎え入れた。それから自分一人上っていった。良一はあっけにとられて、障子のかげに、土間に立って、待った。
三
六畳ほどの茶の間で、長火鉢の向うに、肩のほっそりした女が縫物をしていた。粗末なじみな服装で、少い髪の毛を無雑作に束ねた、四十二三歳の女だった。すっきりした眉と肉のおちた頬に、或る淋しげな品《ひん》をもっていて、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]のまるみに、やさしい温良さが現われていた。相当な生活をしてきたひとで、中年になって突然不幸にみまわれて零落し、その運命にあきらめて落付いている、そういった人柄に見えた。
とびこんできた青年の姿を、彼女は、小さな子供をでも見るようなやさしい目付で迎えた。
青年は外套をぬぎすてて、その前に膝をそろえて坐った。
「ただいま。」
古いすりきれたものではあったが、ともかくも背広服の、その姿が、外を歩いてた時とはまるで別人のように善良だった。
女は赤いはでな仕立物をわきに押しやって、お茶をいれていた。
「早かったですね。」
「お留守なんです。」
「そう。」と気のない返事だった。
「待ってればよかったんだが……。」
その時初めて彼は良一のことを思い出したように、急いで立ってきた。
「さあ、どうぞ……。」
云わるるままに良一はあがっていくと、母です、と彼は云いすてて、横手の室へ案内した。
そこも六畳で、机と本棚とが高窓の下にあって、本棚と並んで、大きな卓子があった。卓子の上には、いくつもの瓶や鉢が混雑していて、大きな赤い電球が一つころがっていた。多分そこで彼は写真の現像を[#「現像を」は底本では「現象を」]するのであろう。
彼は押入から黒い箱をとりだした。中にはたくさん写真がはいっていた。それを順次に、畳の上に、並べ初めた。
「茂樹さん?」
咎めるような声に、彼は顔をあげて、襖のかげから覗いてる母親を見た。
「あ、このひと、川村さんの親戚なんですよ。僕の味方です。」
「まあ、左様でございましたか。」と母親は丁寧に頭をさげた。「先生には、もう始終お世話になっておりまして……茂樹がいつも……。」
あとは口籠って、うつむいて涙ぐんでしまった。良一は、挨拶のしように困った。
茂樹はもう畳の上に、小さな写真を並べながら、母親のことも忘れてるようだった。写真が並ぶに従って、後へしざってゆき、母親はそれに押出されるようにして、黙って襖の向うにかくれた。
古い汚れた畳の上に、不思議な光景があらわれた。正面だの横向だの、或は顔半分など、瞬間のスナップの小さなものだが、そうした人間の顔がずらりと並ぶと、その一つ一つが妙に生きあがってきて、何か意味をもつようだった。その上、並べ方の順序に、驚くべき統一調和があった。殊に、男女のものがまじってるのに、その顔付だけを見ていると、男と女との区別がつかないほど、全体の統一調和がとれていた。
「先ず、最初のは……あれです。」
震えをおびた指先で茂樹がさしたのは、机の上方の壁にかけてある写真だった。紋服をつけた女の半身で……よく見ると、それは、幾年か前の彼の母親の姿なのである。それから畳の上に眼を転ずると、母親に似たものから、順次にちがったものへとなってゆく……。額がさみしく、頬のあたりに弱々しい神経的なものが漂い、鼻が目立たず、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が温和な円みをもっているもの。それから次第に、頭がある重みをもち、鼻が目立ち、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が尖ってくる。そして更に、額がつまり、鼻が頑丈になり、頬がふくれ、※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が短くなる……。それは美の標準によるのではなくて、何か特別な順序にちがいない。そして最後の……彼が最も嫌いだといってるその一つは、最初のを母親として、いったい誰なのであろう。良一はそっと茂樹の顔をうかがった。その顔は、全体の中程にでもあったろうか……。
茂樹は腕組みをして、室の隅を見つめていた。その眼には何にも映ってはいなかった。頭の奥で、何か一心に考えつめているか、或はただ茫然としているか、どちらかの様子だった。
隣りの室でも、母親は何をしてるのか、ことりとの物音もしなかった。写真の顔の列が浮上ってきて、良一は不気味な気持で、眼をそらした。
表の格子戸が、ばかに大きな音をたてて開かれた時、良一はほっと息をついた。その瞬間、茂樹は夢からさめたようにあたりを見廻し、おびえた様子で、手早く、写真を片付け初めた。不意に盗人にでも襲われたような慌てかたで、眼付が荒々しく、手がおののいていた。
玄関で、母親が誰かに応対していたが、やがて、茂樹を呼ぶ声がした。茂樹は返事もせず、写真を箱にしまってから、その箱をまた戸棚にしまい、そして出ていった。
良一はひとり取残されてぼんやりしていた。暫くたつと、茂樹がとびこんできて、彼の耳に囁いた。
「川村さんが来ています。ひょっとすると、くるかも知れません。すぐに出かけましょう。」
さも秘密らしく囁いて、じっと良一の顔をのぞきこんでくるのだった。
「母にはないしょにしといて下さい。心配するといけないから。」
良一は彼の顔を見返したが、何にもよみとることが出来なかった。ともかく、立上って、すぐ玄関に出てみたが、そこには誰もいなかった。
引返してくると、母親は丁寧に挨拶をした。
「もうお帰りでございますか、何にもおかまいも致しませんで……。あの……先生にお逢いの時には、どうぞよろしく申上げて下さいませ。私へまで、こんな御馳走をいただきまして……。」
そこには、何か料理らしい折詰のものが置いてあった。
「じゃあ、そこまで送ってきます。ちょっとお茶をのんでくるから、少しかかりますよ。」
茂樹は母親へそう云って、もう先に立って玄関へ出ていた。
良一は後につづいた。二三間行くと、茂樹は彼の耳に囁いた。
「川村さんのためには、僕は生命をなげだしてもいいんです。安心していて下さい。」
良一には何のことやら分らなかった。茂樹の足はばかに早かった。なかば小走りについていきながら、良一はもう考えるのをやめた。伯父のところへ行くと、川村さんは狂人だと言われるし、川村さんのところを訪ねると、本当に気が少し変らしい青年に逢うし、それから不思議な写真のこと……。そして川村さんは、一昨日まで九度五分の熱でねていたのに、いったいどこへ来ているのか。そしてどういう事が起りかかっているのか……。良一は大体の輪郭だけに迷いこんで、成行に従おうと心をきめた。夜もだいぶ更けたらしい、まばらな通行人の姿が肩をすくめていた。白く引いて流れる息をマントの襟につつんで、彼は茂樹に後れまいと足を早めた。
四
街角《まちかど》を二三度まがって、電車通りにつうずる横町の、構えは小さいが、小綺麗な料理屋の前で、茂樹は立止った。そして内部を窺いながら躊躇していたが、良一の方へ振向いて囁いた。
「ここです。川村さんをたずねてみて下さい。」
「ええ……だが、あなたの名前は……。」
「僕の名前ですって?」
茂樹はじっと良一の顔を見つめた。川村さんの家の前で逢った時と同じような鋭い不気味な光が、眼の中にあった。
「分ってるじゃありませんか。竹山茂樹です。」
良一は中にはいっていって、下足番に、川村さんのことを尋ねた。出て来た女中に、自分たちの名前を通じてもらった。上ってこいとの返事だった。
良一は竹山茂樹をうながして、座敷に通った。
川村さんは酔ってるようだった。二人の顔を見て、頓狂な眼付をした。
「ほう、これは珍らしい。君たちは知り合いなのかい。いつのまに懇意になったんだい。俺にないしょでくっついちゃいかんぞ。」
良一は少々当が外れた気持だった。竹山の言葉によって何か変事を予想さ
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