きた貞操を――僅かな金銭のために、自分でふみにじろうとしていたのだ。それが、子の胸にもひしとこたえた。而も、長い間、悲惨のうちにも頼りきり愛しきって、崇拝に近い感情を寄せていた母親なのだ。
 彼はその晩まんじりともしないで、幼い時からのことを考えなおしてみた。そして、悲しみの余り疲れて寝入ってる母の顔を、つくづく眺めた。それは神々しい顔だった。
 彼は[#彼は」は底本では「僕は」]そっと起きだして、古い手文庫を持ちだし、中の写真をしらべてみた。母の写真が幾枚かあり、父の写真も二枚ほどあった。彼はそれを見比べた。それから、釘をとってきて、父の写真のあらゆる輪廓や顔立の線を、ぶすりぶすり突き刺した[#「突き刺した」は底本では「突き剌した」]。二枚の写真は、釘の穴だらけになって寸断された。悪夢を見てるような気持だった。
 突然、とほうもない大きな声がして、彼は我に返った。母が泣いている。振向いた彼の顔を見ると、畳につっ伏して泣いた。悲しいというよりも、苦痛にたえないような泣きかただった。
「あんな泣きかたを、私は嘗て見たことがありません。」と彼は話した。
 その時から、彼の頭の中で、父の面影
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