憚なき批評をなすことが出来る。文学の領域内の種々の専門的技法の問題としてでなく、生きた人生の問題として論議することが出来る。
 実在的人物の描写から、広汎な意味での自己表現というところへまで、文学が進展させられている現代に於て殊に、長篇作品が要望されるのである。この自己表現という要素は、短篇にあっては往々、作品の空疎を来す恐れがあるけれども、長篇にあっては、作者に精神的活動の自由を与えると共に、作品の立体的重厚さを増させ得る。現実に奉仕することは、横へ横へと平面的な拡がりをのみ招く危険が多いが、それに作者の意欲的創造を加える時には、縦への立体的拡がりを加える結果が得らるるだろう。
 この実際的問題については、理論的解説をなさずとも、多くの長篇作品が示してくれている。前に述べたジィドの作品は固より、ドストエフスキーの諸作もそうであるし、トルストイの最も現実的な作品でさえもそうである。なお、自然主義の作家についてもこのことが言える。すぐれた作品はみな、現実奉仕の一面と共に、作者の意欲的創造の一面をも持っている。そして、この両面をしっくり合体させ得ることは、短篇に於いては困難であるが、長篇に
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