自分を忘れたように、板場の奥に引込んでいたが、一人きりになると、俄にぞっと震えて、それから急いで後片付をすまし、電燈を消したが、板場の奥の一つだけを残して、そこの火鉢の上にかがみこんでじっと考えに沈んだ。
 いつまでも彼女は身動きもしなかった。火鉢の火にぼんやり眼をすえて、心で、何か聞き入り見入ってるようだった。
 恐らく故郷のことでも、潮風のことでも、思い出していたのだろう。
 彼女の父親が難破して死んだのは、彼女の十歳の時だった。それから彼女が小学校を終えた翌年、母親は感冒から肺炎になって死んだ。彼女は近くの町に出て、料理屋の女中になった。一年半ばかりでそこを逃げ出して、東京で折箱屋をやってる伯母を頼ってきた。伯母の家で、五年間手荒い仕事に骨身おしまず働いた。それから伯母のところがうまくいかず、店をしまうことになった時、彼女は女中奉公に出た。小さな請負師の家で、給金もろくに貰えなかった。彼女は自ら周旋屋にかけこんで、伯母の懇意だった人に身許引受人となってもらい、二三転々して、そして只今の芳枝さんの家に来たのだった。彼女は気は利かないが、その代り正直だった。何か荒々しいものを内にもっ
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