しいようなこともないの。」
佐代子は返事をしないで、考えていた。
「お前さん、郷里《くに》は越後だったわね。もうずいぶん帰らないんでしょう。」
「ええ。」
「一度帰ってみたいとは思わないの。」
「いいえ。ただ……あの波の音を聞きたいと思うことはありますけれど……。」
「え、波の音?」
「ざあー、ざあーって、いつも音がしてるんですの。」
「海岸に生れたの?」
「ええ。お父さんが漁に出て、暴風《しけ》で、帰ってこなかった時、お母さんと二人で、じっと波の音をきいてた時のこと、いつまでも覚えていますの。」
「そして、どうしたの?」
「それきり、お父さんは帰ってこなかったんですの。船が沈んでしまったんです。」
芳枝さんは黙っていた。佐代子もそれっきり口を噤んだ。が彼女はそっと芳枝さんに寄りそっていた。
「あたしもね、」と芳枝さんが暫くしていった、「むかし、越後に行ったことがあるわ。そして海を見てびっくりしたわ。こっちの海とまるで違うのね。大きな砂丘があるでしょう、松がまばらに生えてて……。そしてさーっさーっと、潮風が吹きつけてくる。波の音と一緒ね、どっちが波だか風だか分りゃしない。凄いわね。
前へ
次へ
全26ページ中16ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング