の驚きから我に返って、ちょっと面白くなって、片野さんの耳に囁いてやった。
 ――それが、人情っていうものですか。
 何の反応もない。
 ――それが、いかものの味というやつですか。
 何の反応もない。
 ――よし、どうにでもしてしまいなさい。殴りつけるなり、蹴とばすなり、玩具にするなり、あなたの意のままだ。この機会をのがしちゃあ、だめですよ。人間一人を勝手に取扱うのは、何より面白いことですよ。
 何の反応もない。
 ただ、盲目的に、二人の身体はひしとくっつきあっていくだけだった。
 俺は本当に呆れかえった。そして三十分間ばかり、二人は抱きあったまま、低くとぎれとぎれに、べらぼうなことを囁いたり返事したりして、でも最後の一線はふみこえないで、片野さんは立ち上った。書きちらした紙片をポケットにねじこみ、靴をちゃんとはき、裏口の戸を佐代子にあけてもらって、外に出ていった。佐代子はその後ろ姿を見送って、ちょっと空を仰いだ。雨雲が切れて、うすく月の光がさしてる気配《けはい》だった。
 俺はふと思い出して、二階にあがってみた。芳枝さんは酔い疲れて眠っていた。それは俺の気に入った。

 翌日、佐代子は
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