んは便所から戻ってくると、電燈のきえてる板場の方をすかし見た。そこの隅っこで、佐代子が、泣きながら何か用をしていた。
「もういい、もういい。なんだ、泣いてるのか。ばかだな。」
片野さんは寄っていって、彼女の肩に手をかけた。何かびくりとしたようだった。
「泣く奴があるか、ばかな。こっちいこいよ。」
佐代子はなおすすりあげた。
「もういいったら……。」
片野さんはその肩を抱いていた。佐代子は片野さんの胸によりかかるようにして、袂を顔に押しあてながらされるままになっていた。
片野さんは彼女を抱いたまま、座敷に戻ってきた。そこにつっ伏した彼女を引きよせて、膝に抱きあげた。きょとんとした顔付だった。それから急に、両の腕に力をこめた。
まるで意外なことなので、俺は呆気にとられた。あんなに嫌っていた佐代子、足の短い、頸筋の頑丈な、反歯な彼女を、片野さんはしっかと抱きしめてるのである。佐代子はもう泣きやんで、父親にでも抱かれるような調子で、片野さんに全身を托しているのである。眼をつぶって身も心も投げ出してるような様子だ。片野さんの歯が彼女の反歯にふれあって、かちかち鳴る音がした。
俺は初め
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