何のつもりか、片野さんは意地張り通した。ペーパーと鉛筆とを揃え、瓦斯ストーヴの上に薬罐をかけ、それで燗をすることにして、銚子を新たに一本用意さした。食べ残しの干物がまだ膳の上に残っていた。そしてそこで一人になることを主張した。芳枝さんは二階に上っていった。裏口のそばに、雑作改造の時に取残してある三畳の室があった。佐代子はそこに寝るのだった。板前の高橋とその姪の美智子は、いつも十二時には帰っていって、その晩も、片野さんが来た時にはもういなかったのである。
その夜更け、狭いひっそりした店のなかに一人になると、片野さんはちょっとあたりを見廻して、笑みをもらした。それから酒の燗をして、またも飲み初めたが、眼をじっと見据えて、何やら考えこみ、やがて眼をとじ腕をくんで、食台によりかかったまま身動きもしなかった。
時間がたった。眠ってしまったのかと思われる頃、彼は急に眼を開いた。それからすぐ、ペーパーをのべて、鉛筆で何か書きはじめた。
いろいろな不思議な模様だった。縦の線、横の線、四角や三角の円、唐草模様、妙な形の花や葉、動物や人形の像、其他何とも判断のつかないようなものが、入り乱れ散らばって、幾枚もの紙がぬりつぶされた。どうやらそれは、窓や欄間や天井など、建築の各種の細部らしかった。そうだ、彼は建築家だったのである。紙片の上に次々に描き出される建築の細部は、みな怪しく形が歪んで、笑ったり踊ったり、生きて動いてるがようだった。それは必ずしも酔余の戯作とは云えなかった。創造的な不思議な活力がこもっていた。
わきから覗いていると、俺もへんにまきこまれて、つい手を出したくなった。ちょいちょい鉛筆にさわって、勝手な方向に動かしてやった。その度に、片野さんは眼を見張って、図形を眺めた。その図形が法にかなってたかどうかは、俺には分らない。だが彼自身ではひどく天才じみた気分になってたのだろう。すっかり興奮しきって、額にはかるく汗さえ出していた。
やがて、十枚ばかり書きちらすと、後は鉛筆を投げ出して溜息をついた。それから、むしゃむしゃ干物をたべてしまい、酒をのみだした。
銚子が空《から》になると、彼はそれを手にして立ち上った。よろけかかったのをふみ止って、そのまままた坐りこんだ。
「おい、お代りだ。」
「はい。」
返事がしたので、俺はびっくりしたが、無意識に呼んだ彼自身は、なおびっくりしたらしかった。じっと声の方を見つめていたが、やがて、佐代子が銚子を持ってくると、総毛立ったような表情になった。
「ばか、まだ起きてろのか。」そして彼はちょっと息をついた。「なんだって寝ないんだ。寝てしまえと云っといたじゃないか。僕は仕事をしてるんだ。人が起きてると邪魔になるんだ。君がそんなところに起きてるもんだから、見給え、仕事が出来なくなってしまった。何をまごまごしてるんだ。僕を泥棒だとでも思ってるのか。ばかな、誰が持ち逃げなんかするものか。持ち逃げするような気のきいた品物が一つだってあるかい。いやに忠義ぶって、とんちきめ、起きてるなら起きてるで、肴でも拵えてこい。何かあるだろう。おい、なぜ黙ってるんだ。御新香でもなんでもいい、持ってくるんだ。それに酒だ。早くしないか。早く寝ちまうんだ。寝ろったら……。」
ふだんおとなしい片野さんが、怒鳴りだしたのには俺も驚いた。佐代子はすっかり面喰って、まごまごして泣き出してしまった。泣きながら、酒の用意をしだした。
「気のきかない奴ばかり揃ってやがる。」
片野さんは立ち上って、よろけながら下駄をつっかけて、便所にいった。
片野さんは便所から戻ってくると、電燈のきえてる板場の方をすかし見た。そこの隅っこで、佐代子が、泣きながら何か用をしていた。
「もういい、もういい。なんだ、泣いてるのか。ばかだな。」
片野さんは寄っていって、彼女の肩に手をかけた。何かびくりとしたようだった。
「泣く奴があるか、ばかな。こっちいこいよ。」
佐代子はなおすすりあげた。
「もういいったら……。」
片野さんはその肩を抱いていた。佐代子は片野さんの胸によりかかるようにして、袂を顔に押しあてながらされるままになっていた。
片野さんは彼女を抱いたまま、座敷に戻ってきた。そこにつっ伏した彼女を引きよせて、膝に抱きあげた。きょとんとした顔付だった。それから急に、両の腕に力をこめた。
まるで意外なことなので、俺は呆気にとられた。あんなに嫌っていた佐代子、足の短い、頸筋の頑丈な、反歯な彼女を、片野さんはしっかと抱きしめてるのである。佐代子はもう泣きやんで、父親にでも抱かれるような調子で、片野さんに全身を托しているのである。眼をつぶって身も心も投げ出してるような様子だ。片野さんの歯が彼女の反歯にふれあって、かちかち鳴る音がした。
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