」
「じゃあも一度、何度も、はっきり約束するわ。」
芳枝さんが小指を差し出すと、片野さんも小指を差出して、握りあって打ち振った。
「これでいいでしょう。何度くり返したって同じよ。そして約束を守って、しっかり生きていくの。もう無駄使いも止しましょうね。これから、お金を儲けることよ。二人でお金をたくさん儲けたら、それでいいじゃないの。結婚なんて、どうだっていいわ。」
片野さんはうなずいたが、何やら浮かぬ顔色だった。芳枝さんの眉根にも、かすかな苛立ちがあった。
「佐代子!」と彼女は呼びたてた。「お銚子のお代りよ。どしどしつけといて頂戴。」
――こんな場面を見てると、俺はじれったくて仕様がないんだが、あんまり度々なので、もう諦めた。そしてただ一つ、ひそかに俺がほくそ笑むことがあった。それは金銭ということだ。一体二人が愛しあうようになって、もう三年ばかりになるが、愛しあってるだけでは足りないと見えて、始終何かしら嫉妬めいた口説が起るのだった。それかって、結婚するわけにもいかなかったらしい。片野さんは、嘗て或る女と同棲生活をしたことがあり、芳枝さんは、嘗て一年ばかり結婚生活をしたことがあるが、どちらもそれはきれいに清算されてるし、其後、ちょっとした情事もあるにはあったが、二年ばかりこの方、芳枝さんは堅く身を慎んでるし、片野さんは時々全くの浮気をやるくらいのもので、結婚しても差支えない筈だったが、そうはいかない隠れた理由があったのか、或は二人とも同棲生活に疑惑を懐いてたのか、或は多分、親戚知友の関係とか社会的地位とか云う変梃な障害があったのだろう。そのくせ、こうしていて後にはどうなるかという、下らない不安が大きくなっていったらしい。そのため、かるい嫉妬めいた口説がたえず、而もそれを二人とも楽しんでるようにさえ見えた。云わばそうしたことが愛の遊戯だったのかも知れない。そこで俺は見かねて、「金でも儲けなさい。」と二人の心に囁きこんでやった。俺は皮肉るつもりだったんだ。ところが、それが皮肉どころか、二人の最後の逃避所となって、金さえ儲ければ末長く安身立命出来るという観念が生じてしまった。勿論それはただ観念で、二人とも浪費家だから、片野さんの家には少しの財産があるが、そして芳枝さんの小料理屋は相当にやっていけてるが、金儲けなどということには縁遠かった。然し二人がいつもその観念に逃げこむのは、俺にとっては苦笑ものだ。だからちょっとからかってやりたくなるんだ……。
片野さんは更に酔い、芳枝さんももう酔っていた。互に別れかねてる様子だった。片野さんはどこかへ行こうと云い出し、芳枝さんはここに泊っていけと云い出した。芳枝さんにしてみれば、昨晩家をあけたばかりだし、また夜遅いので途中も困るのだった。片野さんにしてみれば、よほど特別のことでもなければ、ここに泊っていくのは体裁がわるかった。
「特別のことよ。こんなに遅いんだもの。それに、あたし酔っちゃって……。」
だが片野さんは何かとぐずっていた。初めてのことではなし、もう分ってることだし、構わないようなものの、第一、彼は佐代子が嫌いだった。
「どうしてそう嫌うの、不思議ねえ。そんなにぶきりょうでもないし、正直だわよ。」
「正直は、ばかってことさ。虫がすかないんだよ。あんな奴、取換えちゃいなさいって、いつも云ってるの、分らないかなあ。図体が長くって、足がちんちくりんだ。頸筋が牛みたいだ。それに反歯《そっぱ》ときてる。それだけでもう、女としてはゼロだ。眼がちょっと見られるからって、鼻が曲っていないからって、反歯の帳消しにはならない。それよりも、僕は虫がすかないんだ。あいつがいないと、ここの家ももっと繁昌するんだがなあ……。」
「しッ、聞えるわよ。あれだって、目をつけてるお客さんがあるのよ。」
「へえ、酔狂だな。」
「とにかく、泊っていくわね。」
片野さんは黙って、天井を見廻した。天井の上が、芳枝さんの室だった。
片野さんは腕をくんで、眼をつぶった。上体がふらふらしていた。それをなお心持ゆすってるのである。
俺はとんでいって、その耳に囁いた。――泊っちまいなさい。女にはまけるものですよ。そして、明日から金儲けだ。ここの家も随分きたないじゃありませんか。金を儲けて、きれいに飾りたてるんですね。佐代子なんかも出しちゃって、きれいな娘を置くんですね。まあ万事、居心地よくすることですね。
片野さんはまだ眼をつぶったまま、上体をふらふらさしていた。
「さあ、どうしたの?」
片野さんは眼を開いて、芳枝さんの顔を不思議そうに眺めた。それからじっと宙に眼を据えた。
「そうだ、面白いことを考えついた。紙と……レターペーパーでいいから、それと鉛筆をかしてくれない。ちょっと仕事があるんだ。先に寝てなくちゃだめだよ。」
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