の驚きから我に返って、ちょっと面白くなって、片野さんの耳に囁いてやった。
 ――それが、人情っていうものですか。
 何の反応もない。
 ――それが、いかものの味というやつですか。
 何の反応もない。
 ――よし、どうにでもしてしまいなさい。殴りつけるなり、蹴とばすなり、玩具にするなり、あなたの意のままだ。この機会をのがしちゃあ、だめですよ。人間一人を勝手に取扱うのは、何より面白いことですよ。
 何の反応もない。
 ただ、盲目的に、二人の身体はひしとくっつきあっていくだけだった。
 俺は本当に呆れかえった。そして三十分間ばかり、二人は抱きあったまま、低くとぎれとぎれに、べらぼうなことを囁いたり返事したりして、でも最後の一線はふみこえないで、片野さんは立ち上った。書きちらした紙片をポケットにねじこみ、靴をちゃんとはき、裏口の戸を佐代子にあけてもらって、外に出ていった。佐代子はその後ろ姿を見送って、ちょっと空を仰いだ。雨雲が切れて、うすく月の光がさしてる気配《けはい》だった。
 俺はふと思い出して、二階にあがってみた。芳枝さんは酔い疲れて眠っていた。それは俺の気に入った。

 翌日、佐代子は風邪のきみだといって一日寝ていた。片野さんのことについては、あれから急な用事を思い出したとかで帰っていった、ということきり芳枝さんは聞き出し得なかった。彼女は何度か佐代子の薄暗い三畳の室にはいっていったが、大して病気でもなさそうだった。
 俺が時々そっと覗いてみたところでは、佐代子はただやたらにぐうぐう眠っていた。
 一日寝てた後で、佐代子は元気に起き上って、忠実に働きだした。拭き掃除から後片付まで、美智子の分までも自分でした。客にも丁寧だった。ただ何となく無口になっていた。そして殊に芳枝さんには忠実だった。芳枝さんの一挙一動に注意して何かと気を配って、進んで奉仕してるようだった。
 俺はその変化に眼を見張った。どうもあの晩から、俺の腑におちないことばかりだ。芳枝さんは片野さんのことに気をもんでるらしかった。手紙を書いたりした。
 四日目に片野さんから電話だった。芳枝さんは長い話をしてから、にこにこして、佐代子にいった。
「今晩あたり来るんだって……。」
 佐代子は顔色もかえなかった。
 だが、片野さんは来なかった。高橋と美智子が十二時になって帰っていってから、客ももうないし、芳枝さんは佐代子と二人で、ぽつねんとストーヴをかこんでいた。寒い晩だった。
「冷えるわね。あたしに一本つけてくれない。」と芳枝さんはいった。
 佐代子はお燗をし、見つくろいの小皿を添え、表の締りをし、それから二階にいって、丹前をもってきてくれた。
 その丹前が、芳枝さんの気を引いたらしい。彼女は珍らしそうに佐代子を眺め、小座敷の上り框近くにストーヴを引寄せ、そこに腰かけて、佐代子にも杯をさした。
「一杯のんでごらん。」
 佐代子は笑っていた。
 芳枝さんは紙片に、いろんな数字を書いては溜息をついていた。
「どうしてこう儲からないのかしら。」
「お酒のはかり方を、ちょっとつめると、ずいぶんちがいますわよ。」
 芳枝さんは頓狂な声で笑った。
「まあ! 佐代子、お前にそんな智恵があるとは思わなかった。」
 そして彼女はまた珍らしそうに佐代子を眺めた。
「あたしね、これからお金をためようと思ってるの。無駄使いもおやめだ。お前さんも万事気をつけておくれね。お金が出来たら、お前さんにももっと何とかしてあげるわよ。」
 佐代子はうっすらと笑った。
「ここにいて、何かつらいことはないの。」
「いいえ。」
「淋しいようなこともないの。」
 佐代子は返事をしないで、考えていた。
「お前さん、郷里《くに》は越後だったわね。もうずいぶん帰らないんでしょう。」
「ええ。」
「一度帰ってみたいとは思わないの。」
「いいえ。ただ……あの波の音を聞きたいと思うことはありますけれど……。」
「え、波の音?」
「ざあー、ざあーって、いつも音がしてるんですの。」
「海岸に生れたの?」
「ええ。お父さんが漁に出て、暴風《しけ》で、帰ってこなかった時、お母さんと二人で、じっと波の音をきいてた時のこと、いつまでも覚えていますの。」
「そして、どうしたの?」
「それきり、お父さんは帰ってこなかったんですの。船が沈んでしまったんです。」
 芳枝さんは黙っていた。佐代子もそれっきり口を噤んだ。が彼女はそっと芳枝さんに寄りそっていた。
「あたしもね、」と芳枝さんが暫くしていった、「むかし、越後に行ったことがあるわ。そして海を見てびっくりしたわ。こっちの海とまるで違うのね。大きな砂丘があるでしょう、松がまばらに生えてて……。そしてさーっさーっと、潮風が吹きつけてくる。波の音と一緒ね、どっちが波だか風だか分りゃしない。凄いわね。
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