「でも聞いてると、いい気持ですわ。」
「いい気持だって?」
 佐代子はうっとりと、大きく眼を見開いていた。
「まあ、冷い手ね。」
 さわった拍子に、芳枝さんは佐代子の手をちょっと執った。佐代子はぼんやり眼を宙にすえたまま、益々寄りそってきた。彼女にとって芳枝さんは、何かしら貴重なやさしいなつかしいもののような有様だった。
「一杯のまない、温まるわよ。」
 佐代子は杯を受けた。そして二人はとりとめもない話をしながら、酒をのんだ。佐代子はすぐに赤くなった。そして身体をくねらして芳枝さんにくっついてくるのだった。
「あたくし、これからどんなにでも働いて、もっと店が儲かるようにしますわ。酒のみのお客さんには、あとからあとから、お銚子を出してやるの。美智子さんみたい、少しお上品すぎますわ。それに、お料理だって、もっと高くしていいんですわ。」
 芳枝さんはびっくりしたように彼女を眺めた。そして、つと立上った。佐代子と並んで、くっついて、手を執りあったりして、銚子を前にして、そこに腰掛けてたのに、一層びっくりしたらしかった。
「もう寝ましょう。」と彼女はぽつりと云った。
 佐代子はぽかんとしていた。それから、赤い顔をなお真赧にして、立ち上った。
「片付けるのは、明日《あした》でいいわよ。もう遅いから。」
 芳枝さんは何かしら不機嫌で、時計を仰いで、洗面所の方へ行った。手を洗って口をすすいだ。佐代子とくっついたのが気に入らなかったらしい。着物をばたばたはたきながら、二階に上っていった。
 佐代子は何か考えこみながら、ゆっくり後片付をした。
 俺は花瓶の中で、何度も欠伸《あくび》をしたものだ。

 その翌晩、片野さんが、十一時近くにやってきた。四五人客があった。片野さんは隅っこの卓子に腰を下した。佐代子が出ていって、黙って丁寧にお辞儀をした。その眼がいつもより睫毛の影が多く、奥深く黒ずんで、そしてちらちら笑ってるらしいのを、片野さんはちょっと眼にとめて、そしてすぐそっぽを向いてしまった。佐代子は用もきかないで引込んでいった。美智子がやって来て、小座敷の方へ片野さんを案内した。
 それだけのことだったが、何かしらいつもと調子がちがってるのが目立った。そして片野さんは小座敷の隅に蹲って、ちょっとした料理で酒をのみだしたが、何事にも興味がなさそうだった。芳枝さんがちょっと顔を出して、よ
前へ 次へ
全13ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング