そよそしい挨拶をしてから、待ってて下さいと囁いた。ええというなげやりな返事だった。銚子をはこんでくる美智子にも殆んど話しかけなかった。何か思い惑ってたに違いない。恐らく先夜のことででもだったろうか。だから俺は、そっと寄っていって、その頭の中のものをかきたててやろうとした。あまり思い惑ってるようなので、助けてやるつもりだった。
 ――先夜、佐代子をつかまえて、随分つまらないことをしたものですね。
 ――うむ……。
 ――あんなことにこだわってるのは、なおくだらないですね。
 ――そう……。
 ――だが、少しめちゃでしたね。人がきいたら呆れますよ。
 ――そうかも知れない。
 ――彼女を抱いてて、「君はまだ処女なの。」ときいたでしょう。「そうよ。」と彼女は返事をしたでしょう。覚えていますか。
 ――覚えてるようだ。
 ――「芳枝は僕の女房みたいなものだが、この頃、誰か男の人と懇意にしてやしないか。」ときいたでしょう。すると彼女は、「知らん。」とただ一言返事したでしょう。覚えていますか。
 ――覚えてるようだ。
 ――キスの間で、よくもそんなことが云えたものですね。呆れ返った。
 ――僕も呆れてる。
 ――いったい、どんな気持だったんです。
 ――分らない。
 ――あんなに嫌ってたでしょう。最上の放蕩ですかね。
 ――ちがう。
 ――今もやはり嫌いですか。
 ――分らん。だが好きじゃあない。
 ――好きでなけりゃ、嫌いというものでしょう。まあいわば、臭いもののにおいをかぐといったところですかね。
 片野さんは嫌悪の渋面をした。
 ――それとも、あなたが抱いてたのは、単なる肉塊でしたかね。
 片野さんは眉をひそめた。
 ――なぜ最後まで犯さなかったんです。少し卑怯でしたね。
 ――何もかも卑怯だ。
 ――いやそんなことはありません。勇敢でしたよ。歯がかちあって、音をたてたじゃありませんか。
 ――ばかな。
 片野さんは腹を立てたらしい。何を云ってももう返事をしないで、しきりに酒をのみだした。
 ――ちょっといいじゃありませんか。ごらんなさい、佐代子を……。
 片野さんは眼もあげなかった。然しそこにじっと落着いてるところを見ると、或は、もう全然佐代子を無視してるのかも知れなかった。
 けれども、佐代子はちょっと見直された。眼の奥の黒い影が、へんに深々と光ってるようだった。快活
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