は佐代子と二人で、ぽつねんとストーヴをかこんでいた。寒い晩だった。
「冷えるわね。あたしに一本つけてくれない。」と芳枝さんはいった。
 佐代子はお燗をし、見つくろいの小皿を添え、表の締りをし、それから二階にいって、丹前をもってきてくれた。
 その丹前が、芳枝さんの気を引いたらしい。彼女は珍らしそうに佐代子を眺め、小座敷の上り框近くにストーヴを引寄せ、そこに腰かけて、佐代子にも杯をさした。
「一杯のんでごらん。」
 佐代子は笑っていた。
 芳枝さんは紙片に、いろんな数字を書いては溜息をついていた。
「どうしてこう儲からないのかしら。」
「お酒のはかり方を、ちょっとつめると、ずいぶんちがいますわよ。」
 芳枝さんは頓狂な声で笑った。
「まあ! 佐代子、お前にそんな智恵があるとは思わなかった。」
 そして彼女はまた珍らしそうに佐代子を眺めた。
「あたしね、これからお金をためようと思ってるの。無駄使いもおやめだ。お前さんも万事気をつけておくれね。お金が出来たら、お前さんにももっと何とかしてあげるわよ。」
 佐代子はうっすらと笑った。
「ここにいて、何かつらいことはないの。」
「いいえ。」
「淋しいようなこともないの。」
 佐代子は返事をしないで、考えていた。
「お前さん、郷里《くに》は越後だったわね。もうずいぶん帰らないんでしょう。」
「ええ。」
「一度帰ってみたいとは思わないの。」
「いいえ。ただ……あの波の音を聞きたいと思うことはありますけれど……。」
「え、波の音?」
「ざあー、ざあーって、いつも音がしてるんですの。」
「海岸に生れたの?」
「ええ。お父さんが漁に出て、暴風《しけ》で、帰ってこなかった時、お母さんと二人で、じっと波の音をきいてた時のこと、いつまでも覚えていますの。」
「そして、どうしたの?」
「それきり、お父さんは帰ってこなかったんですの。船が沈んでしまったんです。」
 芳枝さんは黙っていた。佐代子もそれっきり口を噤んだ。が彼女はそっと芳枝さんに寄りそっていた。
「あたしもね、」と芳枝さんが暫くしていった、「むかし、越後に行ったことがあるわ。そして海を見てびっくりしたわ。こっちの海とまるで違うのね。大きな砂丘があるでしょう、松がまばらに生えてて……。そしてさーっさーっと、潮風が吹きつけてくる。波の音と一緒ね、どっちが波だか風だか分りゃしない。凄いわね。
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