朝やけ
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]
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 明るいというのではなく、ただ赤いという色感だけの、朝焼けだ。中天にはまだ星がまたたいているのに、東の空の雲表に、紅や朱や橙色が幾層にも流れている。光線ではなくて色彩で、反射がない。だからここ、ビルディングの屋上にも、大気中にまだ薄闇がたゆたっている。手を伸してみると、木のベンチには、しっとりと朝露がある。清浄な冷かさだ。
 おれは今、この冷かさを感じ、この朝焼けを眺めている。いつ眼覚めたのか自分でも分らない。意識しないこの覚醒はふしぎだ。或はまだ酔ってるのかも知れない。夢の中にいるような気持ちである。――だが、この屋外に出て来る前、夜中には、たしかにはっきり眼が覚めた。
 その夜、おれは日本酒を飲み、ビールを飲み、更にウイスキーを飲んだ。この最後のやつ、粗悪なウイスキーは、屋台の飲み屋などに氾濫してるカストリ焼酎と同様、敗戦後の悲しい景物だ。その強烈なアルコールは、急速に意識を昏迷させるが、熟睡……だかどうだか分らない睡眠中にも、神経中枢に作用し続けて、その刺戟[#「刺戟」は底本では「剌戟」]のため、夜中にぱっと眼を覚めさせる。そして眼が覚めたら、あとはなかなか眠れないものだ。そのことを、おれは度重なる経験によって知った。
 だから、眼が覚めるとおれは、もう諦めて、布団の中でぱっちり眼を開いていた。雪洞の中の二燭光が、いやに明るい。いけないのは、女がいっしょに寝ていたことだ。女……と、そう言い切ってしまえるほど、おれの心はもう喜久子から離れていた。いや、初めからおれは喜久子を愛したことが本当にあるか、どうか怪しいものだ。
 彼女は、乳房が人並以上に大きい。もう三十五歳ほどにもなって、まだ子供を産んだことがなく、而も幾人かの男の肉体を識っているであろう。そういう女の、大きな豊かな乳房は、或る種の男を甘やかす。悲しい哉おれはその或る種の男の一人だった。おれは彼女の大きな乳房に甘えた。その乳房は、おれにとってはつまり、女性の体温だったのだ。底知れぬぬるま湯の深淵、だが何の奇異も生気もない深淵、ただなま温いだけで、眠れ眠れとすべてのものを誘う盲目の淵、その中におれはもぐり込んだ。快適でもあり、息苦しくもあった。次第に、後者の方が強くなって、窒息の危険さえも感ぜられてきた。
 おれは彼女を肱で突ついてみた。愛する女だったら、指先で探ってみるところだが、彼女には肱でたくさんだ。彼女はぐっすり眠っていた。白粉を洗い落した皮膚は艶やかで、顔の大型なわりに鼻がすっきりと細く、受け口をなして※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が少ししゃくれている。そして安らかな息をしているが、それに一種の香気があった。――だいたいに、酩酊者の息は臭い。おれ自身、酔後の息の臭さを自分でも感ずる。だが喜久子は、いくら酒を飲んでも、実際はそうたくさん飲まないのかも知れないが、おれの知ってる限りでは、息が臭くなることはなく、却って一種の香気を帯びた。そのことをおれは、女性の体温の浄化作用かとも思ったものだ。盲目の淵の中でのばかな錯覚に違いない。おれ自身の息が甚しく臭いものだから、彼女の息の適度の臭さを香気とも感じたのであろう。朝露と朝焼けとの中の空気に比すれば、たしかに彼女の息はいくらか臭かった。
 肱で突つかれて、彼女は、仰向けから向うむきに寝返った。大きな乳房がゆらりと揺れた……とおれは感じた。そう感じさせるものが、彼女の体躯に、殊にそのまるっこい背中にあったのだ。寝間着は着てるが、洗いざらしのその布地はガーゼのように薄く、それがぴったり絡んでる肉体は、厚ぼったく重々しく、そして柔かな温気を漂わせている。おれはその温気のなかに没入したくなった。がその時、おれのすぐ鼻先に、彼女の耳があった。
 その耳は、寝乱れた髪の中からへんになま白く浮き上っていた。いびつな楕円形が更に長めに渦巻いて、その耳朶の下端は、ひきつったように頸部にとけこんでいる。耳朶というものは、おれが思うには、頬から頸への肉附とはくっきりと区切られて、まるっこく盛り上っているのが、上品なのだ。ところが、女の耳には何如に下品なのが多いことか。喜久子のもその一つで、下端の区切りがなく、地肌へひきつられて融けこんでいる。――その耳を、中野が舐めたのだ。
 そのことは、彼女が自ら告白したのだから、嘘ではあるまい。たといおれが強要したにもせよ、そんな話をとっさに作りだせるほど利口な彼女ではない。
 彼女と互の肉体を識り合う仲となってから、おれはしばしば中野の幻影に悩まされた。そして遠廻しにあてこすりを言ったものだが、或る時、気にくわぬことがあって、中野との関係を詰問した。彼女は笑って取り合わなかった。中野はただ酒を飲みに来る客というだけで、それ以外の関わりは何もないと、頑強にそして平然と否定した。
「ただ、耳を舐められただけよ。」
 それが、何のことだかおれには分らなかった。
「もっとはっきり言えよ。」
「だから、耳を舐められただけ。」
 或る夜のこと、他の酔客も立ち去って、中野一人となった。冗談口を利いてるうちに、中野はいつしか黙りこんで、それから、実はたいへん気にかかる秘密事があると囁いた。
「耳をかしてと言うから、あたし、スタンドの上にのりだしてる中野さんの方へ、耳を向けたわ。すると、ただ熱い息だけで、何の声もしやしない。そして、耳朶に何かさわったようで、それから、急にくすぐったくなったから、びっくりして飛び上った……。それだけ。」
「それから……。」
「中野さん、笑ってるから、ばか、と言って、睨みつけてやったら、しょげてたわよ。まるっきり子供ね。」
 その、再話ではあるが、ばかという言葉がへんにやさしく響いたのを、おれは心に留めた。
「いったい、耳を舐められたのか、噛まれたのか、どっちだい。」
「舐められたのよ。噛まれたんなら、すぐに分るじゃないの。も一度、うっかりしてる時に、舐められたことがあるわ。でも、それっきりよ。もうあたしの方で用心してるんだから。」
 二度あったとしたら、三度あったかも知れないのだ。それはとにかく、まあ普通なら、頸筋に接吻するなり、耳にきつく噛みつくなり、そうするところを、耳の下っ端をそっと舐めるなどとは、如何にも中野のやりそうなことだ。而もその耳朶たるや、地肌にひきつられてる下等な下品なものなんだ。それを敢て舐めたり舐めさせたりするところに、おれの思いも及ばない濃厚な情感が、二人の間にあるのかも知れない。
 もともと、おれが喜久子に溺れこんだのも、あの中野卯三郎のせいだった。
 喜久子、前田喜久子が、二年半の間、満州で何をしていたかは、おれにもよく分らない。日本人相手の料理屋をしてる伯母さんの家で、帳場や座敷の手伝いをしていたということだが、まあそれとしておこう。終戦になって、程へて、彼女は東京に帰って来た。伯母さんは体を悪くして、田舎にひっこんだ。喜久子は一人で酒場を初めた。――建物払底の折柄だ。都心近くのある半焼けのビルも、急速に修復されて、幾つもの事務所をぎっしりつめこんだ。屋上に小さな料理店が作られ、それが更に建て増されていった。その一隅に、ささやかな喫茶店があった。そのような場所では、一向に客足がつかなかった。それを、喜久子は伯母さんとその知人との世話で譲りうけてもらい、酒場に改造した。木の腰掛を置き並べたスタンド酒場で、通勤の少女が一人、通常の酒類にちょっとしたつまみ物、註文によっては同じ棟の料理屋から有り合せの物が取り寄せられる。帳場の奥に、彼女は寝室を一つ持っている。すぐ隣りには、中年の夫婦者が寝泊りしている。地階にも二家族住んでいる。ビルのこととて、夜間の戸締りは厳重だし、不安なことはない。――だが、喜久子は、その屋上から平地へおりて暮したがっている。
「家を一軒持ちたいんですけれど……。」
 懇意な客に彼女はよくそう言った。
 然し実際、彼女はそこに家を持っている。
「だって、こんなの、小鳥の巣みたいですもの。」
 家が小さいという意味ではなく、屋上の高いところにあるからだ。
 彼女は美人とは言えないが、まあ尋常な顔立だし、見ようによっては男の心を惹かないこともない。大柄だから小鳥とはおかしいにしても、もしも単に鳥であったならば、その鳥籠を平地に設けてくれる者がないとも限らない。だが彼女には、横着とも捨鉢とも見えるような鈍重さがある。肉体的な重みだ。昔は、かりにも「バー」と名のつく店の「マダム」は、何等かそれ相当なたしなみや気転を備えていたものだが、敗戦後はたいてい、「酒場のお上さん」となってしまった。つまり肉体がまる出しになったのだ。喜久子も、スタンドの向うにのんびり構えて、大きく二重にふくらました前髪を額の上にのっけ、大きな乳房を乳当もせずにぶらさげ、下品な耳朶を若い男にしゃぶらせている。――もっとも、閏房などでなく店先で、彼女の耳を舐めるような芸当は、中野以外の者にはなかなか出来なかろう。
 あの晩、おれは、中野の言語素振りに殊に気を引かれた。――いつしかおれ達だけになって、喜久子もいっしょに、三人でビールやウイスキーを飲んでいた。彼女は客の杯を受けることはあまりなかったが、時刻がたって馴染みの者ばかりになると、ずいぶん飲んだ。ビルの屋上のちょっと厄介な場所なので、店開けは早かったが、九時過ぎにはもう客足は絶えるのだ。
「もう遅いようね。……あら、あたしの時計、とまってる。」と男の声。
「いつもとまってるじゃないの。」
「でも、酒を飲む時は、時計がとまってる方がよくはないかしら。あたし、そう思うのよ。」
 それを言ってるのが、中野だった。おれはくだらない冗談口にも倦き、酔いも深まって、ぼんやりしていたが、その男声の女口調には感情をくすぐられた。
 よせばよいのに、喜久子は追求してるのだ。
「酒を飲む時だけ。」
「そうね、酒を飲む時と、音楽を聞いてる時と、映画を見てる時と……。」
「あのひとと逢ってる時。」
「あら、いやあだ。それから、ここのマダムと逢ってる時……。」
「ここのマダムは、お酒でしょう。さあ、お飲みなさいよ。」
 彼女がビールをついで、それにまたウイスキーを垂らそうとすると、彼はくねくねと手を振った。
「そんな強いの、あたし、もうだめよ。ずいぶん酔った。階段から転げ落ちて、あしたの朝、死んでたなんて、惨めでしょう。そこまで、送って来てよ。」
 スタンドに両腕を投げだし、しなやかに肩をくねらしてる、その姿態は、それでも醜くはなかった。頭髪をきれいにポマードで光らせ、格子柄の茶色の背広をきっちりまとい、胸ポケットから真白なハンカチをのぞかしてる、三十歳前後の好男子なのだ。
 おれはたて続けに二本目の煙草を吸って、ちょっと外へ出てみた。大気は淀んでいた。空は暗く、星の光りはかすんでいた。街衢の灯は乏しく、あちこちに焼け残りのビルが真黒くつっ立っていた。陰欝な夜と眺望だ。――今朝のこの清冷な朝焼けとは、まるで雲泥の相違だった。
 おれを此処に引張って来た園部も、この屋上からの夜明けを眺めたことがあるだろうか。いや、恐らくあるまい。詩人である彼は、ただ屋上のバーということだけで、気に入ったものらしい。地下室のバーと屋上のバーとは、共に人の旅情をそそるものだと、彼は言った。それは詩人の幻想をはぐくむものらしい。だが、おれは詩人ではない。陰欝な夜の眺望などは、嫌なことだ。おれは屋内に戻っていった。中野卯三郎はまだいた。
 おれはどうして、あんな女男みたいな奴と親しく飲み交わすようになったのか。おれの方でうっかりしたのだ。彼は平素、愛想のいい青年紳士らしい挙措なので、人目にはつかない。だが酔ってくると、喜久子の前だけかも知れないが、なにか粘っこい女らしさを発散する。それが、わざと
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