らしい不自然さでないだけに、おれの神経を刺戟[#「刺戟」は底本では「剌戟」]するのだ。相当に名の売れた楽器店の息子で、園部の弟子と自称してるところを見ると、詩作も少しはやるらしいし、また楽器も多少はいじれるらしいし、ダンスもやるらしいし、そして楽器店の商売にも外交的手腕をいくらか持ってるらしい。つまり、いろいろなことが出来て、結局は何も出来ないのだ。酔った揚句に男でも女でもなくなるのと同様だ。敗戦後の苛辣な世の中に、こういう文化人……彼もまあ一個の文化人だろう……それが残存しているということは、或は新たに生れたということは、悲しい事柄だ。おれと彼と何の関係があるか。おれは園部の友人であり、彼は園部の弟子だと自称してる、それだけの係り合いに過ぎないのだ。
然し、精神を喪失した案山子のような彼と、おれとの間に、喜久子の肉体があった。中野はビールを飲んだり、スタンドに身をもたせてくねらしたり、なにか思い余ってることでもあるらしい様子だった。喜久子は微笑を浮かべて、それをちらちら見ていた。身を動かす毎に、薄物のブラースと襯衣ごしに、豊かな乳房の揺れるのが見えた。これはおれの想像ではなく、全く見えたのだ。そしておれは、中野の姿態と喜久子の乳房と、両者を繋ぐ喜久子の微笑の眼眸とに、苛立たせられ、また情念をそそられた。そこで立ち去ればよかったのだが、未練がましくねばったために、変なことになった……いや、なしてしまったのだ。
喜久子は酔った時の癖で、おれ達に煙草をふるまった。その煙草はまた、もう店をしめるという合図であり、帰ってくれとの催促なのだ。雇いの小女はもう先刻帰っていってる。
中野は煙草に火をつけて、それから言った。
「トランプを貸してよ。」
「どうするの。」と喜久子は尋ねた。
「あれをしてみるのよ。」
「じゃあ、やってごらんなさい。」
なにか二人だけの約束事らしい。
中野はトランプを並べた。円形に時計の文字盤通りに、四枚ずつ十二ヶ所、そして中央に一ヶ所、その中央からめくり初めて、出た数字のところへ移ってゆく。時計占いだ。彼は器用な指先で札をめくってゆく。中央のキングが四枚揃って開いたところで、調べてみると、七時のところに一枚だけふさったのが残っていた。
「それごらんなさい。」と喜久子は言った。「一杯だけよ。どっちにするの。」
「いいえ、お酒はもうたくさん。……それよりか、まったくふしぎよ。」
ふしぎというのは、七時のところにだけ一枚残ったことだった。彼が言うには、この頃、毎日続けて朝の七時に夢をみる。へんな夢をみる。それが気になっていたところへ、トランプがまたそれを示した。
「マダムも、七時に夢をみるでしょう。」
「七時頃、夢なんかみないわよ。」
「でも、今にきっとみるようになってよ。」
「どうして。」
「占いに出たんだもの。七時に夢をみたら、どんな夢だか、あたしに話してね。ちょっと気になることがあるのよ。」
彼はスぺードの7を手に持ったまま、睫毛の長い黒ずんだ眼で、彼女の顔をじっと眺めた。彼女は笑みを含んでその視線を受け留め、彼のグラスにウイスキーをついだ。
「さあ、占いの一杯よ。」
彼は一息にそれを干して立ち上った。おれに一礼した。
「どうぞ、ごゆっくり。お先に失礼します。」
一人になってから、おれは急に癇癪が起りそうで、歩き廻った。飲みなおしに、日本酒の熱燗を頼んだ。もう湯はさめきっていた。ぐずぐずしてると、階下の表口ばかりでなく裏口も閉めきられて、厄介なことになるかも知れなかった。
「いいさ。夜明しで飲むよ。」
「じゃあ、あたしもつきあうわ。」
二人とも酔ってたけれど、そんなことになったのは、中野の幻影が残ってたせいもある。その幻影をそのまま置き去りには出来なかったのだ。
酒場の奥は六畳の日本室だ。置床と押入があって、雨戸に硝子戸にカーテンと、わりによく出来ている。そこに、小机、用箪笥、鏡台、食卓、火鉢、其他一通りの器具が、ごっちゃに雑居している。おれと彼女は、電熱器のそばに一升瓶をひきつけ、飲みながら夜明けを待った。待つうちに酔いつぶれた。何かしらもうめちゃくちゃだった。そしておれは彼女の体温の中に沈没した。僅かに覚えてることは、おれが少しく狂暴だったことと、彼女が少しく冷静だったことだ。彼女は衛生器具を備えていた。それから、その後も、彼女は冷感性かとも思われるふしがあった。ただ、彼女の乳房と、腿は甚だしく豊満だ。おれがもし画家だったら、乳房と腿だけを巨大に誇張して彼女の肖像を描くだろう。
その巨大な乳房と腿とは、おれの理智を麻痺させ、おれの感情を麻痺させ、おれの眼をつぶらせる。そこでは、眼を開くことが不安で、眼を閉じることが楽しいのだ。それでも、おれは時々あばれた。彼女を実は愛してるのか憎んでるのか分らない気持ちの、一種の焦燥のあまり、その胸を殴りつけ、その頸に噛みついた。痕跡の紫斑を隠すためか、彼女は和服を着ることが多くなった。冷静なのだ。
或る時、おれを本当に好きかどうか尋ねたのに対して、彼女は冷静に答えた。
「好きよ。あんたのごつごつしてるのが、好きよ。男ののっぺりしてるのは、あたし嫌い。」
ごつごつしてること、感情的にも身体的にもごつごつしてること、それは彼女の豊かな肉体には一種の快適な刺戟[#「刺戟」は底本では「剌戟」]ではあろう。だが、中野はいったい彼女にとってどうなのか。おれとああいう仲になってから、中野を見る彼女の眼眸はますますやさしさを増したことを、おれは知っている。中野に耳をしゃぶらせ、くすぐったくて飛び上ったではないか。それ以上の肉体的交渉は、彼等の間になさそうだが、それが却っておれに不安を与えるのだ。おれはいつしか中野を避けるようになってしまった。だが彼の幻影は、彼女との抱擁の中にまでつきまとってくる。それでもおれは一人になると、へんに肌がうすら淋しく、ふくよかな彼女の体温が恋しくなる。そしてしばしば、夜明しの酒飲みに、つまり泊りに行った。
おれはなるべく他の客達と顔を合わせるのを避けた。「マダム」の愛人らしい振舞いではなく、その間男らしい振舞いなのだ。他の客達の中心には、言うまでもなく中野卯三郎がいた。そしてややもすると、彼からおれの方へ押しよせてきた。
それでも、やはり、おれは虚勢を張って、酒場で早くから飲みだすこともあった。喜久子は何喰わぬ風を装っているが、語調や素振りの些細な点で、おれとの親昵を[#「親昵を」は底本では「親眤を」]曝露してしまう。それによっておれは却って救われた気持ちになる。思えば浅間しい限りだ。
なるべく早く酔ってしまいたく、立て続けに飲んで、さてその後では時間をもてあまし、屋上をぶらつくことも、しばしばあった。――先日もそうだった。冷かな夜風がそよ吹いて、上弦の月が西空にかかっていた。その淡い月光は、高いビルの屋上では、地上よりも身にしみて、園部の所謂旅情をそそる。おれは胸壁にもたれて、煙草を吸った。その時、中野が近づいて来た。彼を平気で迎えられたのも、旅情のせいだったであろうか。
彼はもう相当飲んでるらしく、二三度大きく息をついた。そして何か憚るようにゆっくり口を利いた。さすがにおれに向っては女口調は使わなかった。
「酔っていらっしゃいますか。」
「いや、そう酔ってもいないよ。なぜだい。」
「だって、あなたは酔っ払うともうめちゃくちゃですもの。」彼はちらっと笑ったらしかった。「ちょっとお話があるんですけれど……。」
それを彼はなかなか切り出さなかった。煙草を一本吸う間かかった。睫毛の長いその眼が、淡い月光のせいばかりでなく、弱々しく悲しそうに見えた。
「マダムのことなんです。」
おれは眉をひそめた。
「マダムは私を怒ってやしませんかしら。」
耳のことだなとおれはとっさに思ったが、実は違っていた。
「怒ってるんでしたら、それは誤解なんですから、あなたからもよく仰言って下さいませんか。」
「いったい、何のことだい。」
話を聞いてみると、実につまらぬことだ。――彼の知人に音楽家の若い女がいた。ヴァイオリンが専門だが、戦災でピアノを焼き、こんど新らしいのを中野の店から買うことになった。その女流音楽家が、ビールが好きなので、喜久子の店へ案内して飲ましてやった。ただそれだけのことで、はかに何にもないんだそうだ。
「それをマダムがどうして怒るんだい。」
「誤解してるんです。私とその音楽家と変な仲だと思ったんでしょう。」
「変な仲だっていいじゃないか。」
「だって、私はマダムを好きですし、マダムは私を好きなんです。」
「ほう、相愛の仲か。」
「いいえ、違いますよ。ただ好きなんです。……私はあなたとマダムとのこともよく知っています。けれど、それは別の問題です。私は何とも思ってやしません。そんな問題ではなく、ただ、私はマダムを好きですし、マダムは私を好きです。その私が、ほかに恋人を持ってるなどと誤解されるのは、つらいことです。マダムは誤解してるんです。私からあまり弁解するのもへんですから、あなたからも、口添えして下さいませんか。」
「つまり、その音楽家が君の恋人でないということになれば、それでいいのかい。」
「そうなんです。」
「そして、それが本当なのかい。」
「本当です。」
「そんなら、もうそれで構わないじゃないか。」
「ただ、マダムから誤解されて、怒られてると、私はいやなんです。」
「そんなこと、わけはない。僕からもよく言ってやろう。」
「お願いします。」
話はそれで終った。ところが、やがて酒場にはいって、喜久子の顔を見ると、突然、おれは自分の立場の滑稽なのを感じた。――彼はおれと喜久子との仲をよく知ってると言った。それは本当だろう。而もそのおれの前で、それは別問題として、彼と彼女とはお互に好きだと公言した。全然おれを無視しているのだ。そして女流音楽家のことなど持ち出した。その図々しさには、何か他に秘密があったのだろうか。
おれは中野の話を喜久子に伝えた。
彼女は笑った。
「あのひと、可愛いいところがあるわね。あたしがちょっと拗ねた風を見せると、すぐ本気にするんですもの。」
「中野は君を好きだと言った。君も、中野を好きだと言うんだね。」
「まあ……そうね。」
「それを、僕の前で言うのかい。」
「言ったっていいじゃないの。遊びですもの。」
彼女はきらきら光るような瞳を、じっとおれの眼に据えた。
「あんたの方は、遊びじゃない、真剣なのよ。」
そして彼女はおれの首を抱いたが、おれは唇をそむけた。
彼女はおれの方を真剣だと言う。だが、それは肉体だけの真剣さだ。この真剣さは、いつ他へ移動して、おれのところには遊びしか残らなくなるかも知れない。中野はそれを見抜いているのかも知れない。或は本能的に察してるのかも知れない。実際のところ、おれの方だって、喜久子を愛してるとは言えない。ただ肉体だけの享楽だけじゃないか。然し、それならば、いったい愛とは何だ。彼女の体温に溺れこみたいこの誘惑や衝動は何だ。
おれは決意した。もっとも、今考えると、それは酔漢の決意だ。
おれは可なりの金額を調達した。喜久子のところへ借りの全部を払い、更に余分に彼女に預けた。そして飲めるだけ飲んだ。彼女を通じての伝言で、中野も来た。
「めでたい用件だが、それは最後にしよう。」
おれはそう言って、彼に酒をすすめ、喜久子にもすすめ、女流音楽家の一件をも酒の肴にした。もう小女も帰っていってるし、他に客もなかった。そして最後に、おれは次のように宣言するつもりだった。
「さあ、三人とも酔っ払った。だからもう、つまらない遠慮などはいるまい。今夜は、三人でいっしょに寝るんだ。僕と喜久子さんとは、もう肉体的に深い仲だ。それから中野君とマダムとは、互に好き合ってる仲だし、耳を舐めたり舐めさしたりしてる。僕と中野君とは、これは兄弟だ、愛情の同窓だ。さあ寝るんだ。喜久子さんを真中にして寝よう。中野君は耳をしゃぶれよ。僕は頸に噛みついてやる。喜久子さんがどうするかは、喜久子さ
前へ
次へ
全3ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング