だ。
「もう遅いようね。……あら、あたしの時計、とまってる。」と男の声。
「いつもとまってるじゃないの。」
「でも、酒を飲む時は、時計がとまってる方がよくはないかしら。あたし、そう思うのよ。」
それを言ってるのが、中野だった。おれはくだらない冗談口にも倦き、酔いも深まって、ぼんやりしていたが、その男声の女口調には感情をくすぐられた。
よせばよいのに、喜久子は追求してるのだ。
「酒を飲む時だけ。」
「そうね、酒を飲む時と、音楽を聞いてる時と、映画を見てる時と……。」
「あのひとと逢ってる時。」
「あら、いやあだ。それから、ここのマダムと逢ってる時……。」
「ここのマダムは、お酒でしょう。さあ、お飲みなさいよ。」
彼女がビールをついで、それにまたウイスキーを垂らそうとすると、彼はくねくねと手を振った。
「そんな強いの、あたし、もうだめよ。ずいぶん酔った。階段から転げ落ちて、あしたの朝、死んでたなんて、惨めでしょう。そこまで、送って来てよ。」
スタンドに両腕を投げだし、しなやかに肩をくねらしてる、その姿態は、それでも醜くはなかった。頭髪をきれいにポマードで光らせ、格子柄の茶色の背広を
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