女口調は使わなかった。
「酔っていらっしゃいますか。」
「いや、そう酔ってもいないよ。なぜだい。」
「だって、あなたは酔っ払うともうめちゃくちゃですもの。」彼はちらっと笑ったらしかった。「ちょっとお話があるんですけれど……。」
 それを彼はなかなか切り出さなかった。煙草を一本吸う間かかった。睫毛の長いその眼が、淡い月光のせいばかりでなく、弱々しく悲しそうに見えた。
「マダムのことなんです。」
 おれは眉をひそめた。
「マダムは私を怒ってやしませんかしら。」
 耳のことだなとおれはとっさに思ったが、実は違っていた。
「怒ってるんでしたら、それは誤解なんですから、あなたからもよく仰言って下さいませんか。」
「いったい、何のことだい。」
 話を聞いてみると、実につまらぬことだ。――彼の知人に音楽家の若い女がいた。ヴァイオリンが専門だが、戦災でピアノを焼き、こんど新らしいのを中野の店から買うことになった。その女流音楽家が、ビールが好きなので、喜久子の店へ案内して飲ましてやった。ただそれだけのことで、はかに何にもないんだそうだ。
「それをマダムがどうして怒るんだい。」
「誤解してるんです。私とそ
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