朝やけ
豊島与志雄

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 明るいというのではなく、ただ赤いという色感だけの、朝焼けだ。中天にはまだ星がまたたいているのに、東の空の雲表に、紅や朱や橙色が幾層にも流れている。光線ではなくて色彩で、反射がない。だからここ、ビルディングの屋上にも、大気中にまだ薄闇がたゆたっている。手を伸してみると、木のベンチには、しっとりと朝露がある。清浄な冷かさだ。
 おれは今、この冷かさを感じ、この朝焼けを眺めている。いつ眼覚めたのか自分でも分らない。意識しないこの覚醒はふしぎだ。或はまだ酔ってるのかも知れない。夢の中にいるような気持ちである。――だが、この屋外に出て来る前、夜中には、たしかにはっきり眼が覚めた。
 その夜、おれは日本酒を飲み、ビールを飲み、更にウイスキーを飲んだ。この最後のやつ、粗悪なウイスキーは、屋台の飲み屋などに氾濫してるカストリ焼酎と同様、敗戦後の悲しい景物だ。その強烈なアルコールは、急速に意識を昏迷させるが、熟睡……だかどうだか分らない睡眠中にも、神経中枢に作用し続けて、その刺戟[#「刺戟」は底本では「剌戟」]のため、夜中にぱっと眼を覚めさせる。そして眼が覚めたら、あとはなかなか眠れないものだ。そのことを、おれは度重なる経験によって知った。
 だから、眼が覚めるとおれは、もう諦めて、布団の中でぱっちり眼を開いていた。雪洞の中の二燭光が、いやに明るい。いけないのは、女がいっしょに寝ていたことだ。女……と、そう言い切ってしまえるほど、おれの心はもう喜久子から離れていた。いや、初めからおれは喜久子を愛したことが本当にあるか、どうか怪しいものだ。
 彼女は、乳房が人並以上に大きい。もう三十五歳ほどにもなって、まだ子供を産んだことがなく、而も幾人かの男の肉体を識っているであろう。そういう女の、大きな豊かな乳房は、或る種の男を甘やかす。悲しい哉おれはその或る種の男の一人だった。おれは彼女の大きな乳房に甘えた。その乳房は、おれにとってはつまり、女性の体温だったのだ。底知れぬぬるま湯の深淵、だが何の奇異も生気もない深淵、ただなま温いだけで、眠れ眠
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