れとすべてのものを誘う盲目の淵、その中におれはもぐり込んだ。快適でもあり、息苦しくもあった。次第に、後者の方が強くなって、窒息の危険さえも感ぜられてきた。
おれは彼女を肱で突ついてみた。愛する女だったら、指先で探ってみるところだが、彼女には肱でたくさんだ。彼女はぐっすり眠っていた。白粉を洗い落した皮膚は艶やかで、顔の大型なわりに鼻がすっきりと細く、受け口をなして※[#「臣+頁」、第4水準2−92−25]が少ししゃくれている。そして安らかな息をしているが、それに一種の香気があった。――だいたいに、酩酊者の息は臭い。おれ自身、酔後の息の臭さを自分でも感ずる。だが喜久子は、いくら酒を飲んでも、実際はそうたくさん飲まないのかも知れないが、おれの知ってる限りでは、息が臭くなることはなく、却って一種の香気を帯びた。そのことをおれは、女性の体温の浄化作用かとも思ったものだ。盲目の淵の中でのばかな錯覚に違いない。おれ自身の息が甚しく臭いものだから、彼女の息の適度の臭さを香気とも感じたのであろう。朝露と朝焼けとの中の空気に比すれば、たしかに彼女の息はいくらか臭かった。
肱で突つかれて、彼女は、仰向けから向うむきに寝返った。大きな乳房がゆらりと揺れた……とおれは感じた。そう感じさせるものが、彼女の体躯に、殊にそのまるっこい背中にあったのだ。寝間着は着てるが、洗いざらしのその布地はガーゼのように薄く、それがぴったり絡んでる肉体は、厚ぼったく重々しく、そして柔かな温気を漂わせている。おれはその温気のなかに没入したくなった。がその時、おれのすぐ鼻先に、彼女の耳があった。
その耳は、寝乱れた髪の中からへんになま白く浮き上っていた。いびつな楕円形が更に長めに渦巻いて、その耳朶の下端は、ひきつったように頸部にとけこんでいる。耳朶というものは、おれが思うには、頬から頸への肉附とはくっきりと区切られて、まるっこく盛り上っているのが、上品なのだ。ところが、女の耳には何如に下品なのが多いことか。喜久子のもその一つで、下端の区切りがなく、地肌へひきつられて融けこんでいる。――その耳を、中野が舐めたのだ。
そのことは、彼女が自ら告白したのだから、嘘ではあるまい。たといおれが強要したにもせよ、そんな話をとっさに作りだせるほど利口な彼女ではない。
彼女と互の肉体を識り合う仲となってから、おれはしばしば中
前へ
次へ
全13ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング