だ。
「もう遅いようね。……あら、あたしの時計、とまってる。」と男の声。
「いつもとまってるじゃないの。」
「でも、酒を飲む時は、時計がとまってる方がよくはないかしら。あたし、そう思うのよ。」
 それを言ってるのが、中野だった。おれはくだらない冗談口にも倦き、酔いも深まって、ぼんやりしていたが、その男声の女口調には感情をくすぐられた。
 よせばよいのに、喜久子は追求してるのだ。
「酒を飲む時だけ。」
「そうね、酒を飲む時と、音楽を聞いてる時と、映画を見てる時と……。」
「あのひとと逢ってる時。」
「あら、いやあだ。それから、ここのマダムと逢ってる時……。」
「ここのマダムは、お酒でしょう。さあ、お飲みなさいよ。」
 彼女がビールをついで、それにまたウイスキーを垂らそうとすると、彼はくねくねと手を振った。
「そんな強いの、あたし、もうだめよ。ずいぶん酔った。階段から転げ落ちて、あしたの朝、死んでたなんて、惨めでしょう。そこまで、送って来てよ。」
 スタンドに両腕を投げだし、しなやかに肩をくねらしてる、その姿態は、それでも醜くはなかった。頭髪をきれいにポマードで光らせ、格子柄の茶色の背広をきっちりまとい、胸ポケットから真白なハンカチをのぞかしてる、三十歳前後の好男子なのだ。
 おれはたて続けに二本目の煙草を吸って、ちょっと外へ出てみた。大気は淀んでいた。空は暗く、星の光りはかすんでいた。街衢の灯は乏しく、あちこちに焼け残りのビルが真黒くつっ立っていた。陰欝な夜と眺望だ。――今朝のこの清冷な朝焼けとは、まるで雲泥の相違だった。
 おれを此処に引張って来た園部も、この屋上からの夜明けを眺めたことがあるだろうか。いや、恐らくあるまい。詩人である彼は、ただ屋上のバーということだけで、気に入ったものらしい。地下室のバーと屋上のバーとは、共に人の旅情をそそるものだと、彼は言った。それは詩人の幻想をはぐくむものらしい。だが、おれは詩人ではない。陰欝な夜の眺望などは、嫌なことだ。おれは屋内に戻っていった。中野卯三郎はまだいた。
 おれはどうして、あんな女男みたいな奴と親しく飲み交わすようになったのか。おれの方でうっかりしたのだ。彼は平素、愛想のいい青年紳士らしい挙措なので、人目にはつかない。だが酔ってくると、喜久子の前だけかも知れないが、なにか粘っこい女らしさを発散する。それが、わざと
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