―建物払底の折柄だ。都心近くのある半焼けのビルも、急速に修復されて、幾つもの事務所をぎっしりつめこんだ。屋上に小さな料理店が作られ、それが更に建て増されていった。その一隅に、ささやかな喫茶店があった。そのような場所では、一向に客足がつかなかった。それを、喜久子は伯母さんとその知人との世話で譲りうけてもらい、酒場に改造した。木の腰掛を置き並べたスタンド酒場で、通勤の少女が一人、通常の酒類にちょっとしたつまみ物、註文によっては同じ棟の料理屋から有り合せの物が取り寄せられる。帳場の奥に、彼女は寝室を一つ持っている。すぐ隣りには、中年の夫婦者が寝泊りしている。地階にも二家族住んでいる。ビルのこととて、夜間の戸締りは厳重だし、不安なことはない。――だが、喜久子は、その屋上から平地へおりて暮したがっている。
「家を一軒持ちたいんですけれど……。」
懇意な客に彼女はよくそう言った。
然し実際、彼女はそこに家を持っている。
「だって、こんなの、小鳥の巣みたいですもの。」
家が小さいという意味ではなく、屋上の高いところにあるからだ。
彼女は美人とは言えないが、まあ尋常な顔立だし、見ようによっては男の心を惹かないこともない。大柄だから小鳥とはおかしいにしても、もしも単に鳥であったならば、その鳥籠を平地に設けてくれる者がないとも限らない。だが彼女には、横着とも捨鉢とも見えるような鈍重さがある。肉体的な重みだ。昔は、かりにも「バー」と名のつく店の「マダム」は、何等かそれ相当なたしなみや気転を備えていたものだが、敗戦後はたいてい、「酒場のお上さん」となってしまった。つまり肉体がまる出しになったのだ。喜久子も、スタンドの向うにのんびり構えて、大きく二重にふくらました前髪を額の上にのっけ、大きな乳房を乳当もせずにぶらさげ、下品な耳朶を若い男にしゃぶらせている。――もっとも、閏房などでなく店先で、彼女の耳を舐めるような芸当は、中野以外の者にはなかなか出来なかろう。
あの晩、おれは、中野の言語素振りに殊に気を引かれた。――いつしかおれ達だけになって、喜久子もいっしょに、三人でビールやウイスキーを飲んでいた。彼女は客の杯を受けることはあまりなかったが、時刻がたって馴染みの者ばかりになると、ずいぶん飲んだ。ビルの屋上のちょっと厄介な場所なので、店開けは早かったが、九時過ぎにはもう客足は絶えるの
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