中の明るみ全体も黄色っぽい。おれは眼をこすり、立ち上って両腕をぐるぐる廻し、坐って額を叩いた。
「あら、どうしたの。」
 喜久子がこちらを向いて、眼をぱっちり開いていた。その眼もちょっと黄色くて、そして何にも見ていないもののようだ。おれは頭から布団にもぐりかけたが、彼女の体温に引かれて、その大きな乳房に顔を埋めた。彼女は柔らかい片腕をおれの首に巻いた。おれの眼から涙が出てきた。悲しいのではなく、ただ涙がしぜんと流れた。それから、呼吸が苦しくなった。おれは自分で自分の息を塞ぐように、彼女の乳房にますます顔を押しあて、両手で縋りついていった。そして彼女の体温に咽せ返ると、寝返って彼女の方へ背を向けた。
 おれは酔っていたのではない。だが、すべて夢のような心地だ。暫くうとうとして、またはっきり眼が覚めた。彼女はよく眠っていた。おれはそっと起き上って、寝間着をぬぎ捨て服装をととのえた。そして草履をつっかけて、外の屋上へ出、木の腰掛に身を托した。かすかに冷気を含んだ暖い大気が、ゆるやかに動いていた。暗い空に、ところどころ、星が杳かに見えていた。おれはもう何も考えず、星の光りに瞳をこらして……そしてうとうとしたらしい。
 眼を開くと、壮麗な朝焼、冷たい露、まるで別な世界だ。ふしぎと宿酔の気持ちもない。おれはもうこれで、喜久子から離れ去ろうと思う。ここの酒場に来ないというのではない。ただ、彼女の体温から離脱したいのだ。このような盲目の愛情を、おれの魂はもう荷いきれなくなった。而もどれだけの愛情か。彼女はおれとのことを真剣だと言った。また、或る抱擁の瞬間、彼女は呻いて、あんたが一番好きと言った。そのような言葉を嘗て、彼女は誰にも言わなかったであろうか、また、今後誰にも言わないであろうか。否、と黎明は答える。
 朝焼けの色彩は、もう次第に薄らぎ、白銀色にいぶされて、地平の彼方には太陽の光線も立ち昇っていることであろう。
 喜久子の体温への別れの言葉を、おれは探し求めた。だがそれは見つからなかった。僕は君を本当に愛していなかった、と言えば嘘になる。もう君に倦きた、と言っても嘘になる。君の乳房の中で僕は窒息しそうだ、と言えば本当だが、彼女には恐らく意味が通じなかろう。いっそ、何にも言わないことにしよう。中野のことなどは、これから勇敢に無視するだけだ。
 おれは立ち上って伸びをした。背筋が
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