んの自由に任せよう……。」
 そんな気狂いじみたことを、おれは自暴自棄的に而も真面目に考えていたのだ。それがおれの決意だった。ところが、如何に酔っ払ったとは言え、いざとなると、その実行の困難さが分った。この屋上から飛び降りるのと、同じぐらい困難だ。たとい眼をつぶっても飛び降りるのだという自覚はどうすることも出来ない。たとい喜久子や中野が承知するとしても、おれの魂がそれに反撥する。而も、最も悪いことには、喜久子も中野も或は面白がって承知するかも知れなかった。彼女の盲目な肉体は、また彼の萎靡した精神は、それを受け容れ得るかも知れなかった。だが、おれの魂は頑強に反抗した。――おれはいつしか、深い瞑想に沈みこんでいった。
「どうしたんでしょう。なんだか様子が変ね。」と中野が言っていた。
「飲みすぎたんでしょう。」と喜久子が言っていた。
「用事ってのは、何のことかしら。」
「さあ、あたしにも分らないわ。」
 そのような言葉を遠く耳にして、おれは身を動かしたとたんに、コップを二つスタンドから落したらしい。硝子の砕ける澄んだ音に、おれは我に返って立ち上った。
「用件とは、酒を飲むことだ。さあ、もっと飲もう。」
 おれは祝杯をあげかけたが、また腰掛の上にくず折れてしまった。
「あたし、もう帰ってよ。」
「ええ、それがいいわ。」
 声だけ聞えた。中野は立ち去ったらしい。喜久子はちょっと後片付けをしたらしい。そしておれは寝床へ連れこまれたらしい。
 アルコールの過度の刺戟[#「刺戟」は底本では「剌戟」]で、おれは夜中に眼を覚ました。それからおれは、肱で突っつかれて寝返りをした喜久子の、下品な耳をしばらく見ていたが、ひどく佗びしい気持ちになって、そっと起き上った。枕頭の水を幾杯も飲んだ。その水のコップに、へんに黄色がさしていた。持ちようによって、黄色は浮きだしたり消えたりした。それが、置床にある杜若の花の反映だと分った。
 陶器の花瓶に三輪、無造作に活けこんだ、黄色い杜若の花だった。普通の白や紫の方がよほど綺麗なのに、どうしていやな黄色の花などを拵えるのだろう。――殊に、雪洞の二燭光で眺めると、その黄色は、殆んど生気がなくて造り物のようだ。――そんなことを考えていると、また、鼻先に、喜久子の耳が見えた。その耳も、なんだか黄色みを帯びている。気のせいか、雪洞の白紙も黄色みを湛えている。室の
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