女口調は使わなかった。
「酔っていらっしゃいますか。」
「いや、そう酔ってもいないよ。なぜだい。」
「だって、あなたは酔っ払うともうめちゃくちゃですもの。」彼はちらっと笑ったらしかった。「ちょっとお話があるんですけれど……。」
それを彼はなかなか切り出さなかった。煙草を一本吸う間かかった。睫毛の長いその眼が、淡い月光のせいばかりでなく、弱々しく悲しそうに見えた。
「マダムのことなんです。」
おれは眉をひそめた。
「マダムは私を怒ってやしませんかしら。」
耳のことだなとおれはとっさに思ったが、実は違っていた。
「怒ってるんでしたら、それは誤解なんですから、あなたからもよく仰言って下さいませんか。」
「いったい、何のことだい。」
話を聞いてみると、実につまらぬことだ。――彼の知人に音楽家の若い女がいた。ヴァイオリンが専門だが、戦災でピアノを焼き、こんど新らしいのを中野の店から買うことになった。その女流音楽家が、ビールが好きなので、喜久子の店へ案内して飲ましてやった。ただそれだけのことで、はかに何にもないんだそうだ。
「それをマダムがどうして怒るんだい。」
「誤解してるんです。私とその音楽家と変な仲だと思ったんでしょう。」
「変な仲だっていいじゃないか。」
「だって、私はマダムを好きですし、マダムは私を好きなんです。」
「ほう、相愛の仲か。」
「いいえ、違いますよ。ただ好きなんです。……私はあなたとマダムとのこともよく知っています。けれど、それは別の問題です。私は何とも思ってやしません。そんな問題ではなく、ただ、私はマダムを好きですし、マダムは私を好きです。その私が、ほかに恋人を持ってるなどと誤解されるのは、つらいことです。マダムは誤解してるんです。私からあまり弁解するのもへんですから、あなたからも、口添えして下さいませんか。」
「つまり、その音楽家が君の恋人でないということになれば、それでいいのかい。」
「そうなんです。」
「そして、それが本当なのかい。」
「本当です。」
「そんなら、もうそれで構わないじゃないか。」
「ただ、マダムから誤解されて、怒られてると、私はいやなんです。」
「そんなこと、わけはない。僕からもよく言ってやろう。」
「お願いします。」
話はそれで終った。ところが、やがて酒場にはいって、喜久子の顔を見ると、突然、おれは自分の立場の滑稽なのを
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