か分らない気持ちの、一種の焦燥のあまり、その胸を殴りつけ、その頸に噛みついた。痕跡の紫斑を隠すためか、彼女は和服を着ることが多くなった。冷静なのだ。
 或る時、おれを本当に好きかどうか尋ねたのに対して、彼女は冷静に答えた。
「好きよ。あんたのごつごつしてるのが、好きよ。男ののっぺりしてるのは、あたし嫌い。」
 ごつごつしてること、感情的にも身体的にもごつごつしてること、それは彼女の豊かな肉体には一種の快適な刺戟[#「刺戟」は底本では「剌戟」]ではあろう。だが、中野はいったい彼女にとってどうなのか。おれとああいう仲になってから、中野を見る彼女の眼眸はますますやさしさを増したことを、おれは知っている。中野に耳をしゃぶらせ、くすぐったくて飛び上ったではないか。それ以上の肉体的交渉は、彼等の間になさそうだが、それが却っておれに不安を与えるのだ。おれはいつしか中野を避けるようになってしまった。だが彼の幻影は、彼女との抱擁の中にまでつきまとってくる。それでもおれは一人になると、へんに肌がうすら淋しく、ふくよかな彼女の体温が恋しくなる。そしてしばしば、夜明しの酒飲みに、つまり泊りに行った。
 おれはなるべく他の客達と顔を合わせるのを避けた。「マダム」の愛人らしい振舞いではなく、その間男らしい振舞いなのだ。他の客達の中心には、言うまでもなく中野卯三郎がいた。そしてややもすると、彼からおれの方へ押しよせてきた。
 それでも、やはり、おれは虚勢を張って、酒場で早くから飲みだすこともあった。喜久子は何喰わぬ風を装っているが、語調や素振りの些細な点で、おれとの親昵を[#「親昵を」は底本では「親眤を」]曝露してしまう。それによっておれは却って救われた気持ちになる。思えば浅間しい限りだ。
 なるべく早く酔ってしまいたく、立て続けに飲んで、さてその後では時間をもてあまし、屋上をぶらつくことも、しばしばあった。――先日もそうだった。冷かな夜風がそよ吹いて、上弦の月が西空にかかっていた。その淡い月光は、高いビルの屋上では、地上よりも身にしみて、園部の所謂旅情をそそる。おれは胸壁にもたれて、煙草を吸った。その時、中野が近づいて来た。彼を平気で迎えられたのも、旅情のせいだったであろうか。
 彼はもう相当飲んでるらしく、二三度大きく息をついた。そして何か憚るようにゆっくり口を利いた。さすがにおれに向っては
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