になって来た。驚いて眼を開くと、彼の顔を先刻から見つめていたらしい看護婦の視線がちらと外らされた。中西は両腕を組んで首を垂れていた。向うに婆さんが坐っていた。袖を顔に当てがっていた。「何をしてるんだろう?」と彼は思った。そしてふと見ると、皆の後ろの方に火鉢が一つ置きざりにされていた。見覚えのある鉄瓶がかかっていた。口から白い湯気がたっていた。それを見ると全身の悪寒を感じた。彼は夜具の中に肩をすくめた。
「皆火鉢にあたったらどうだい。」と彼は中西の方を見ていった。
「ああ。」と中西は頓狂な声で返事をした。
 その時、婆さんが洟をすすった。と思うと、急に忍び音に泣き出した。腰を二つに折って、膝の上に押し当てた両肩をゆすって、「おう、おう、おう!」というような押えつけた泣き声を洩しながら、その度に赤茶けた髪の毛が震えた。暫くすると、看護婦もぽたりと涙を膝の上に落した。
 敬助は驚いた眼を見張った。俄に夜の静けさが深さを増したような気がした。そしてその寂寥の底に、永く、本当に永く忘れていた面影が浮んできた。眉を剃り落した慈愛に満ちた母の顔が室の薄暗い片隅にぼんやり覗いていた。彼は何故ともなく母
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