が死んだのだという気がした。それを皆が泣いているのだと思った。然し彼はどうしても泣けなかった。何だかほっとしたような安心をさえ覚えた。するとその母の側に、厳めしい父の顔が現われた。彼は何とか言葉をかけようと思った。然し喉の奥まで言葉を出しかけた時、父と母とは、じっと室の入口の襖の方を見た。梯子段に誰か上って来る足音が聞えた。静かな低い足音だった。彼もその方を見つめた。すると静に襖が開いて、一人の女が其処に現われた。「おや!」と思うと、凡ての幻は消えてしまった。しいんと引入れられるような静けさになった。するとまた新たに梯子段に弱い足音が聞えた。彼はその足音に覚えがあった。然し誰の足音だか思い出せなかった。でじっとそれに聞き入っていると、やがてその足音は梯子段を上り切って、襖を開いた。慶子の姿が現われた。彼女は真直に彼の方へ歩いて来た。眼を上げると、彼女はにこっと微笑んだ。彼は宛も電光に打たれたような感じがした。一時に凡ての幻が消え失せて、頭の中に刻み込まれたまま忘れていた彼女の最後の笑顔が、まざまざと其処に据えられた。
 唇を上と下と少し歪めて、きっと食いしばっていた。口の一方の隅が平た
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