彼は前後を身廻した。室の中は静まり返ったような気がした。そして思わず「慶子さん!」と叫んだ。声には出なかったがそれが室の中一杯に反響したようだった。「慶子さん、慶子さん!」そういう響きが四方から起ってきた。そして「慶子は死んだ」という感情が現実の姿を取ってまざまざと現われてきた。
彼は急に起き上った。皆疲れきった眠りに陥っていた。機会は絶好だった。彼は立ち上ろうとした。然し全身に力がなくてまた其処に屈んでしまった。その時彼の頭にちらと閃めいたものがあった。彼は書棚の前に匐い寄って行った。そして静にその下の抽斗から懐剣を取り出した。鞘を払うと、刀身《とうしん》は鍔元に一点の錆を浮べただけで青白く輝いていた。彼は陰惨な笑いを顔に浮べた。そしてまたそっと蒲団の上に匐い寄っていった。
その時、縁側の障子にはまった硝子板の一枚から、何か黒いものがじっと室の中を覗き込んでいた。彼はぞっと頭髪を逆立てた。そして我を忘れて、いきなり手に持った懐剣をそれに目がけて投げつけた。硝子の壊れて飛び散る激しい物音が家の中に響き渡った。
婆さんと看護婦とが同時に飛び起きた。隣りの室から寝巻のまま中西が飛び込
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