行った。腹の底から棒のようなものがこみ上げて来た。彼は息をつめてそれをぐっと押えつけた。するとその棒が急にしなしなに崩れて、頭の中にがあんと大きい響きが起った。その時、慶子がかっと赤いものを吐き出して彼の方へ倒れかかって来た。彼はその身体を両腕に抱き取った。そしてしきりにその身体を振り廻した(と思った)。それから彼は意識を失った。――
 その光景がまざまざと、而も霧を通して見るような静けさを以て、敬助の頭の中に浮んできた。勿論その時の会話は思い出せなかったが、その会話の齎す気分はそのまま情景の中に籠っていた。而もそれが一定の距離を距てたためか、朗かな大気の中に包まれたように見えた。じっと見つめていると、薄暗い谷底から高い峯の頂を仰ぐような感じがした。ただその前後は茫漠として少しも見分けがつかなかった。
 彼は一種の恍惚たる境に導かれていった。清らかな翼のうちに包まれて、静に高く高く昇ってゆくがような気がした。何処かで慶子が微笑んでいた。愛が微笑んで輝いていた。彼は空高く両手を差伸そうとした。
 その時、一種の眩暈を彼は感じた。と、急に深い暗黒の淵の中に陥っていった。激しい加速度を只て墜
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