の視線に、彼は心の底までも貫かれたような気がした。彼の全身の働きがぴたりと止った。凡てが深く落ち着き払った。彼はふりもぎるように慶子の視線から顔を外らして、静に紫の壜を電気にかざして、中の溶液をも一度すかし見た。それからそれをぐっと一息に飲み干した。冷熱の分らないただ水銀のように重い感じのするものが、胃の底に流れ込んだのを感じた。慶子は彼の姿を身守って、身動き一つしなかった。
――敬助は彼女の側ににじり寄って、その手を掴んだ。その時彼女は云った、「嬉しい!」そして苦悩の口と残忍な眼と信頼の頬とで彼に微笑んだ。彼も同じように微笑んだ(と思った)。「慶子さん!」と彼は云った。「嬉しい!」と彼女はまた云った。二人の声は泣き声に震えていた。然し二人共涙は流さなかった。
――それは殆んど名状し難い時間だった。二人の取り合った手がぶるぶると震えて、次第に深く喰い込んでいった。敬助の頭の中にはあらゆる感情が混乱して渦を巻いた。それを或る大きな黒い翼がしきりに羽叩いた。と急にあたりがしいんと静まり返った。後には何物も残らなかった。彼は眼を閉じて、握りしめた慶子の手一つを頼りにした。時間が飛び去って
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