じて石のように固くなっていた。眉と眉との間に深い皺が寄っていた。それは彼女が何か苦しい思いに自分と自分を苛《さいな》む時の癖だった。乱れた荒い呼吸が、小さな鼻の孔から激しく出入していた。敬助ははっとした。彼女のそういう様子のうちには或る強い恐ろしいものが籠っていた。
 ――「どうかしましたか。」
 ――何の答えもなかった。
 ――敬助は彼女の肩を捉えて激しく揺った。「云って下さい。何でもいいからいって!」
 ――慶子は眼を開いた。そしてじっと彼の顔を見た。
 ――「もうお別れする時ですわね。」
 ――「えッ! それではこれほどいってもあなたは私が信じられないんですか。私達二人の心が信じられないんですか。」
 ――「信じています。信じています。信ずるから申すのです。」
 ――彼女のうちには、あらゆる意志と感情とを一つに凝らした或る冷かなものがあった。敬助はいつもそれに出逢うことを恐れた。そしてその時は一層強い衝動《ショック》を受けた。或る何ともいえない石の壁にぶつかったような気がした。彼は苛ら苛らして来た。そして自分の苛ら立ちに気付けば気付くほど、益々慶子は冷たく落ちついてくるようだった。まだ自分は彼女に強い信念を与えることが出来ないのか、どうして自分達はただ一つの途に落ち着いて未来に進むことが出来ないのか! 彼はくり返して、愛の信念を説いた、愛の力を説いた。その間彼女は黙って聞いていた。そして彼が口を噤むと、はらはらと涙を流した。「許して下さい!」そう彼女は声を搾って云った。
 ――何を許すことがあったろう! 彼女には前に恋人があった。然し彼女はその愛のうちに男の方に虚偽があるのを知るや、男を捨ててしまったのではないか。愛に一点の隙間をも許さない彼女の態度は純真なるものではなかったか。またそのために家の中に於ける彼女の地位が危くなってること、その男のために彼女の両親が未だに時々困らされていること、そういうことは敬助も凡て知って許していたではないか。またその他に彼女の身の上に何か暗いものがあっても、彼女の心が一つにさえ燃えていればいいと幾度もくり返して云ったではないか。そして敬助は何も尋ねないで、二人の心をただ一つの愛に燃え切らせることばかりをつとめた。その一筋の心で彼は故郷の両親へあてて長い告白の手紙をも書いた。両親からは拒絶の返事が来た。近々伯父が上京する由まで書き添えてあった。然しそれはかねて予期したことではなかったか。彼は最後の勝利を信じていた。「ただ信じて下さい!」と彼は慶子にいった。
 ――「何を許すことがあります。私達はただ進んでゆくより外に途はありません。もう後へは引返されないのです。あなたはまだ躊躇するのですか。」
 ――「いえいえ、もう決心しています。」と彼女は云った、「あんまり苦しいから、ゆきつめた所まで行ったから、……ひょっとするともうお別れする時じゃないかと思って。」
 ――「何で別れるのです。私は何処へでもあなたが行く所へついて行きます。あなたも私の行く所へいつまでもついて来ますね。」
 ――「ええ、屹度!」
 ――そう云って彼女はまた眼を閉じた。
 ――もう何にも云うことは無かった。敬助もじっと眼を閉じた。そうして二人は長い間身動きもしないでいた。言葉が無くなると、いつも二人でじっと愛の祈祷のうちに沈み込むより外はなかった。そして何物とも知れず二人を脅かして来るもの、幾度となく誓われた信念の後にもなお底深い所から上って来て二人を距てようとする淋しいもの、それに対して心を護る外はなかった。とその時、敬助はふと或る冷たいものに触れたような気がして、全身を震わした。眼を開くと慶子がじっと彼の顔を見つめていた。二人は食い入るように互の眼の中を見入った。
 ――やがて慶子は静に身を引いた。その顔は一瞬間、凡ての恰好を歪めて苦悶の表情をしていたが、すぐに澄み切った朗かさに返った。高い鼻の細りとした痩せ型の顔が、何ともいえず端正な趣きを呈した。それを見ると、敬助はどうしていいか分らなかった。彼は机の上につっ伏して眼を閉じた。あらゆるものが頭の中から消え失せた。底知れぬ寂寥の感が全身に上って来た。そしてどれだけ時間がたったか覚えなかった。
 ――何か、かたっという音が机の上にした。敬助はふと顔を上げた。慶子は火鉢の前に端坐して、眼を閉じ、両手を膝の上に組んでいた。彼はじっとその姿を見つめた。と俄にはっとして両肩を聳かした。首根ががくりとした。それは一種本能的な直覚だった。顧みると、机の上に小さな紫の壜がのっていた。彼はそれを手に取り上げた。壜の底の方に、紫の硝子を通して見らるる重そうな溶液が少し残っていた。
 ――その時慶子は顔を上げて、彼の眼をじっと見入った。全く表情を没した大理石のような顔だった。そしてその一筋
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