になって来た。驚いて眼を開くと、彼の顔を先刻から見つめていたらしい看護婦の視線がちらと外らされた。中西は両腕を組んで首を垂れていた。向うに婆さんが坐っていた。袖を顔に当てがっていた。「何をしてるんだろう?」と彼は思った。そしてふと見ると、皆の後ろの方に火鉢が一つ置きざりにされていた。見覚えのある鉄瓶がかかっていた。口から白い湯気がたっていた。それを見ると全身の悪寒を感じた。彼は夜具の中に肩をすくめた。
「皆火鉢にあたったらどうだい。」と彼は中西の方を見ていった。
「ああ。」と中西は頓狂な声で返事をした。
 その時、婆さんが洟をすすった。と思うと、急に忍び音に泣き出した。腰を二つに折って、膝の上に押し当てた両肩をゆすって、「おう、おう、おう!」というような押えつけた泣き声を洩しながら、その度に赤茶けた髪の毛が震えた。暫くすると、看護婦もぽたりと涙を膝の上に落した。
 敬助は驚いた眼を見張った。俄に夜の静けさが深さを増したような気がした。そしてその寂寥の底に、永く、本当に永く忘れていた面影が浮んできた。眉を剃り落した慈愛に満ちた母の顔が室の薄暗い片隅にぼんやり覗いていた。彼は何故ともなく母が死んだのだという気がした。それを皆が泣いているのだと思った。然し彼はどうしても泣けなかった。何だかほっとしたような安心をさえ覚えた。するとその母の側に、厳めしい父の顔が現われた。彼は何とか言葉をかけようと思った。然し喉の奥まで言葉を出しかけた時、父と母とは、じっと室の入口の襖の方を見た。梯子段に誰か上って来る足音が聞えた。静かな低い足音だった。彼もその方を見つめた。すると静に襖が開いて、一人の女が其処に現われた。「おや!」と思うと、凡ての幻は消えてしまった。しいんと引入れられるような静けさになった。するとまた新たに梯子段に弱い足音が聞えた。彼はその足音に覚えがあった。然し誰の足音だか思い出せなかった。でじっとそれに聞き入っていると、やがてその足音は梯子段を上り切って、襖を開いた。慶子の姿が現われた。彼女は真直に彼の方へ歩いて来た。眼を上げると、彼女はにこっと微笑んだ。彼は宛も電光に打たれたような感じがした。一時に凡ての幻が消え失せて、頭の中に刻み込まれたまま忘れていた彼女の最後の笑顔が、まざまざと其処に据えられた。
 唇を上と下と少し歪めて、きっと食いしばっていた。口の一方の隅が平たく緊張して、他方の隅には深い凹みが出来ていた。白い歯が二本ちらと唇の間から見えていた。何という苦悩の口だったろう! そして眼が異様に輝いていた。彼女の眼はいつも冷かな鋭い光りを持っていたが、その時は魂の底までも曝け出したような奥深い光りに燃えていた。黒目は小さかったが、瞳孔が非常に大きかった。凡てを吸いつくすと同時に凡てを吐き出すような熱い乱れた光りが在った。何という残忍な眼だったろう! それに、その眼とその口とを包んだ頬の曲線はしなやかにくずれていた。心持ちたるんだ頬の肉が真蒼だったが、凡てをうち任した柔かな襞を拵えていた。額には清らかな色が漂っていた。何という信頼しきった顔だったろう! 而もそれ全体が微笑んでいたのだ。
 敬助は息をつめた。彼女の笑顔が頭の中でふらりと動いたかと思うと、彼の眼には赤いものが見えた。
「あッ!」と彼は覚えず叫んだ。そして起き上った。
 中西が急に彼の立ち上ろうとする肩を捉えた。
「静かにしていなけりゃ……。」
「放してくれ給え、放して!」そして彼は昏迷した眼付で室の中を眺め廻した。書棚の前に押しやられた机の上には、何やら一杯のせられて、白い布が被せてあった。床の間の軸も物置もいつもの通りになっていた。自分は蒲団の上に坐って、中西と看護婦とから肩を捉えられていた。婆さんが火鉢の側につっ立っていたが、また静に坐ってしまった。
 彼は深い溜息をついた。肋膜のあたりが急に痛み出した。それでまた薄団の中に横になった。電球に被せてある紗の布が何だか不安だった。
「あの布《きれ》を取って下さい。」と彼は云った。
 看護婦が立ち上ってそれを取り払った。
 室の中は明るくなった。眼がはっきりしてきた。と共に頭の中が急に薄暗くなってきた。意識の上に深い靄がかけているような気がした。凡てのことが夢のような間隔を距てて蘇ってきた。彼は眼をつぶった。そして静にその光景をくり返した。
 凡ては底の無いような静けさに包まれていた。
 ――敬助は机に片肱をもたして坐っていた。慶子は彼の方へ肩をよせかけて坐っていた。二人の前には火鉢に炭火がよく熾っていた。夜はもうだいぶ更けているらしく、あたりはひっそりと静まり返っていた。何の物音も聞えなかった。二人の息さえも止まったかと思われる程だった。その時、急に慶子の呼吸が荒々しくなってきた。敬助は驚いて顧みると、彼女は眼を閉
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