の視線に、彼は心の底までも貫かれたような気がした。彼の全身の働きがぴたりと止った。凡てが深く落ち着き払った。彼はふりもぎるように慶子の視線から顔を外らして、静に紫の壜を電気にかざして、中の溶液をも一度すかし見た。それからそれをぐっと一息に飲み干した。冷熱の分らないただ水銀のように重い感じのするものが、胃の底に流れ込んだのを感じた。慶子は彼の姿を身守って、身動き一つしなかった。
 ――敬助は彼女の側ににじり寄って、その手を掴んだ。その時彼女は云った、「嬉しい!」そして苦悩の口と残忍な眼と信頼の頬とで彼に微笑んだ。彼も同じように微笑んだ(と思った)。「慶子さん!」と彼は云った。「嬉しい!」と彼女はまた云った。二人の声は泣き声に震えていた。然し二人共涙は流さなかった。
 ――それは殆んど名状し難い時間だった。二人の取り合った手がぶるぶると震えて、次第に深く喰い込んでいった。敬助の頭の中にはあらゆる感情が混乱して渦を巻いた。それを或る大きな黒い翼がしきりに羽叩いた。と急にあたりがしいんと静まり返った。後には何物も残らなかった。彼は眼を閉じて、握りしめた慶子の手一つを頼りにした。時間が飛び去って行った。腹の底から棒のようなものがこみ上げて来た。彼は息をつめてそれをぐっと押えつけた。するとその棒が急にしなしなに崩れて、頭の中にがあんと大きい響きが起った。その時、慶子がかっと赤いものを吐き出して彼の方へ倒れかかって来た。彼はその身体を両腕に抱き取った。そしてしきりにその身体を振り廻した(と思った)。それから彼は意識を失った。――
 その光景がまざまざと、而も霧を通して見るような静けさを以て、敬助の頭の中に浮んできた。勿論その時の会話は思い出せなかったが、その会話の齎す気分はそのまま情景の中に籠っていた。而もそれが一定の距離を距てたためか、朗かな大気の中に包まれたように見えた。じっと見つめていると、薄暗い谷底から高い峯の頂を仰ぐような感じがした。ただその前後は茫漠として少しも見分けがつかなかった。
 彼は一種の恍惚たる境に導かれていった。清らかな翼のうちに包まれて、静に高く高く昇ってゆくがような気がした。何処かで慶子が微笑んでいた。愛が微笑んで輝いていた。彼は空高く両手を差伸そうとした。
 その時、一種の眩暈を彼は感じた。と、急に深い暗黒の淵の中に陥っていった。激しい加速度を只て墜落した。彼は思わず眼を開いた。
 室の中にはただ電灯の明るみが澱んで、三人がじっと坐っていた。看護婦は何かの雑誌を膝の上に拡げていた。そして彼は初めて自分が蘇生したのであることを知った。然しそれは夢のような感じだった。凡てが静に落着いてはいたが、何処か不思議な点があった。
「慶子さん!」と彼は心のうちで叫んでみた。「嬉しい!」と何処かで声がした。それが彼の心の底までを貫いた。残酷とも悲痛とも憂愁とも知れない名状し難い感が、俄に彼のうちに上ってきた。あッ! と思うまに、深淵の底に取り残された自分を彼は見出した。もはやどうすることも出来なかった。彼は両手を胸の上に組んで、捩り合した。苦しいものが胸の底からこみ上げてくるのをかきむしりたいような気がした。
「慶子はどうしたろう、慶子は?」彼は身を※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いた。
 中西が静に彼の側に寄って来て、彼の手を握っていてくれた。それに気がつくと、彼はその手に縋りついた。
「中西!」
「ああ。」と中西は答えた。
「慶子さんは?」
 中西は何とも答えないで、夜具の乱れたのを彼の肩にまとってくれた。それから何とか云おうとした。
「しッ!」と敬助はそれを遮り止めた。梯子段に人の足音がするようだった。耳を澄すと果して静かな足音が梯子段を上って来た。彼はその足音を知っていた。息を凝らしてその方を見つめていると、襖がすうっと開いた。慶子が立っていた。彼女はただじっと敬助の顔をまともに眺めた。彼は何か云おうとした。と俄にその幻がすうっと彼の胸の中に吸い込まれてしまった。金泥で笹の葉を描いた淡黄色の襖が壁のように閉め切ってあった。
 彼にはぼんやり凡てのことが分った。彼は眼を閉じて、中西の手を握りしめた。
「中西、すっかり僕に話してくれるか。」
「然し今君は……。」
「いやもう大丈夫だ。僕は慶子さんが死んだことを知っている。ただ詳しいことが知りたいのだ。」
 苦しくはあったが不思議にもその言葉は落着いていた。彼は自らそれに心の落ち着きを覚えた。
「うむ、それでは凡て話してあげよう。知っておく方がいいだろう。然し君は今どんなことにもじっと面し得るだけの力があるか。そして……。」
「分ってる。」と敬助はそれを遮った。「理屈はいらない。ただ詳しい事実だけが知りたいのだ。僕は凡てを予期している。云ってくれ、偽りの無い所を
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