。」云ってしまうと胸が痛んだ。
「宜しい。」
 それから暫く言葉が途切れた。がやがて中西はこう云い出した。
「僕は簡単にいう。……君達が劇薬を飲んで倒れている所を婆さんが発見したのだ。そして驚いて家の中を駆け廻っている所に僕が帰って来た。……僕はすぐに医者の許へ飛んで行った。医者はすぐに来た。然しもうだいぶ時間がたっていた。どうにも仕様が無かった。然し君の方には見込みがあると医者は云った。後できくと君は飲んだ分量が少かったのだ。然しその時は殆んど見当がつかなかった。慶子さんの方はもう到底駄目だった。それでも二人共手当はした。夜明けになって君は眼を開いた、何かしきりに云っていたが、言葉は聞き取れなかった。神経が麻痺していたのだ。それから昏睡状態が続いた。ジガーレンを二度注射した。夕方君はまた眼を開いた。然し医者は今覚してはいけないといった。脳を気遣ったのだ。モヒを注射した。そして先刻から君は本当に覚めたのだ。」
 敬助は黙ってその言葉を聞いていた。
「……慶子さんの方は助からなかった。僕は変事を知らしてやった。親父さんと兄さんとがやって来てくれた。せめて君の方だけでも助けてくれと兄さんが云った。僕は泣いた。皆泣いた。……慶子さんの死体はその午後家に運ばれた。」
 敬助はいつかそういうことは夢にみたような心地がした。そして黙っていた。
「君は生きなくちゃいけない!」と中西は云った。「僕と慶子さんの兄さんとで手を廻して、世間には発表しないようにしてある。知ってるのは僕達と、山根の家の人と、八重子さんとだけだ。周囲の者は、君に勇気を要求している。この事件に面してまた立ち上るだけの勇気を要求している。凡ては運命だ。君が信ずるとも信じなくともいい。ただ感じてさえくれればいい。運命ということを!」
 深い沈黙が続いた。その時婆さんは立って来て、敬助の枕頭に坐った。彼女は一寸敬助の顔を覗き込んだが、そのまま顔を袖の中に埋めてしまった。
 婆さんの泣いている姿を見ると、悲痛なものが敬助の胸の底からこみ上げて来た。彼は歯をくいしばって中西の手を握りしめた。
「中西!」そう彼は呼びかけた。後は言葉が出なかった。そしてじっと天井の片隅を見つめていると、何か恐ろしい打撃を身に感じた。
 我を忘れて彼は立ち上った。と足の関節ががくりとして其処に倒れてしまった。
 皆が集って蒲団の中に寝かしてくれるのを彼は感じた。それから一人置きざりにせられたような寂寥を感じて眼を開くと、右の手首を看護婦の手に握られていた。彼はそのまま手を任した。
 看護婦はやがて彼の手を離して、机の上から小さな紙箱を持って来た。そして中から一包の薬を出して彼の方へ差出した。
「薬を召し上れな。」
 敬助は息をつめた。白い紙に包んだ薬を差出してる彼女の顔が、一寸慶子の顔に思えた。とすぐにそれは冷かな看護婦の顔に代った。然し、その薬は毒薬だというように彼は感じた。それは動かし難い直覚のようだった。彼は首肯いた。そして眼をつぶって、白湯と共にその薬をぐっと呑み込んだ。口腔と舌とがざらざらに荒れているのを感じた。それから胃にどっしりと重い響きを感じた。彼は眼を閉じて、もう一言も口を利かなかった。全身に感ずる遠い疼痛のうちに、安らかな気分が漂って来た。表の通りに箱車の通る音がした。あとはまたひっそりとなったが、何処からか遠いざわめきが聞えてきた。彼はそれに耳を傾けて、何の物音だか聞き取ろうとした。然しどうしても分らなかった。
 それから非常に長い空虚な時間が過ぎ去ったような気がした。額のあたりに重い陰影が下りてきた。
 ふと何処からか、かすかな楽の音が洩れてきた。広い野原だった。大勢の男が何か担いで、野原を真直に横ぎっていった。よく見るとその群集に担がれたのは、一人の女だった。乱れた髪の間から白い顔が見えていた。見たこともない美しい顔だった。そして彼はしきりにその見知らぬ女の名前を考え出そうとした。するうちに、その女はいつしか自分と変っていた。群集は自分を柔く担ぎながら、空間を飛ぶように野を横ぎっていった。いつまで行っても野は広茫として際限がなかった。仄かな明るみが大気のうちに湛えていた。そしてその明るみの中に彼は意識が解け去るのを感じた。後はただ茫とした。……
 敬助が眠りから覚めた時、障子には晩秋の日が明るくさしていた。彼はきょとんとした眼で室の中を見廻した。看護婦が向うに坐っていた。中西が寝転んでいた。ぱっとした明るみが、室の中に一杯漲って、凡てを不思議な世界に輝らし出していた。彼は柱から天井から襖までまざまざと眺め廻した。その時彼はふと思い出した。――先刻誰か自分の側に来て、ひそひそと泣いていた。彼は眼を覚そうとしたが、重い靄がどうしても頭から離れなかった。そのうちにまた静になった。

前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング