おい!」そう彼は呼んだ。そして自分でもその声の大きいのに喫驚した。
 中西が飛び起きて彼の側に来た。
「先刻誰か此処に来てやしなかったのか。」
 中西は暫く彼の顔を窺っていたが、遂に云った。
「秋子さんが来ていた。」
 その一言に彼は昨夜からのことがはっきり思い出せた。
「なぜ起さなかった?」
「よく眠ってたから。……秋子さんはまた来ると云っていた。」
 敬助は何ともいわないで、中西の顔から眼を外らした。静に涙が湧き出て来た。彼は夜具を頭から被った。そして唇をかみしめた。いい知れぬ悲しみの情が胸の底からこみ上げて来た。眼瞼を閉じて涙を押え止めていると、頭がくらくらとしてきた。拳《こぶし》で一つ頭を叩くと、凡てが遠くなっていった。
 やがて彼は静に蒲団から顔を出した。何という変化だろう。凡てのものが不思議に思えた。自分の生命が、時間が、あの事変の前後に於て、ふっと暗闇のうちに吸い込まれていた。そしてあの時の光景ばかりが明かに輝いてみえていた。或る距離を置いてそれをじっと見つめていると、それにもはや近づけないことを知ると、限り無い悲しみの情が湧いてきた。而も現在の事物が何というまざまざとした新らしさで、明るみのうちに曝け出されていることか。
「窓をしめてくれないか。」と彼は云った。
 中西は立って行って窓の戸を閉めた。すると縁側の障子だけからさし込む光りが、室の中の陰影に程よく融け込んで、柔い夢のような明るみを拵えた。彼は何故ともなくほっと吐息をついた。
 障子にさしてる日の光りで、朝の九時頃だと彼は思った。(そう時間を推測したことが、彼には自ら不思議に思えた。)八重子さんが尋ねて来た。
 彼女は座に居る人々に一礼したまま、黙って敬助の枕頭に寄ってきた。敬助はじっとその顔を眺めた。すると彼女の眼から涙が出て来て、遂には其処につっ伏してしまった。
「もう大丈夫です。」と敬助は云った。
 八重子は顔を上げた。もう泣いてはいなかった。
「御免下さいね。」そう彼女は云って微笑もうとしたらしかった。然しその微笑は、顔の筋肉を歪めたまま中途で堅くなった。彼女はそれをまぎらすためか、敬助の頭の下の氷枕に触ってみた。氷が水の中で音を立てた。その時初めて敬助は、自分が高熱に襲われてることを知った。
「僕はよっぽど熱が高かったのか。」と敬助は尋ねた。
「うむ、一時は心配だった。」と中西は答えた。「然しもう大したことではない。」
 けれどもそれは気の無さそうな声だった。敬助は黙ってしまった。八重子の方へ何か云ってみたかったが、言葉がみつからなかった。
 やがて、中西と八重子とは隣りの中西の室へ立って行った。暫く何か話し合ってるらしかったが、二つの室は壁に距てられていたので、声さえも聞えなかった。敬助は天井板の木目を見ながら、自分達に味方してくれた者は中西と八重子と秋子とだけだったことを思い出した。すると急に慶子の姿が頭に浮んできた。然し遠い夢の中のような気がした。彼はそれに自ら苛ら苛らしてきた。そしてしきりに凡てを近くに呼び戻そうとした。彼の眼はそれに裏切って熱く濡んでいた。
 医者が来た。医者と共に中西と八重子とが戻って来た。
 敬助は初めてその医者の顔を眺めた。年の若い医者だった。髪を綺麗に分けて、短い口髭を生やしていた。切れの長い眼がその顔立によく調和していた。
 敬助は彼に反感が起った。それは彼が年若いせいだった。年若いことに不快を感ずるのを、自ら訳が分らなかった。それでも静にその診察に身体を任した。医者は一通り診察をすましてこんなことを尋ねた。
「何処か痛みはしませんか。」
「痛みません。」
「嘔気は?」
「ありません。」
「頭痛は?」
「しません。」
 敬助は凡てを否定した。然し実際は、そう云われる身体の遠くにその三つを感ずるような気がした。それから彼は次の問いを待った。然し医者は首を傾げたままいつまでも何とも云わなかった。彼はくるりと寝返りをして向うを向いた。
 医者が帰ってしまうと、急にひっそりとした。敬助は眼をつぶった。長い時間が過ぎた。そのうちにうとうととしていると、後ろで声がした。
「私もう参りますわ。」
 八重子の声だった。敬助は驚いてふり向いた。八重子も喫驚したらしかった。彼女は立ちかけた腰をまた其処に下した。
「覚めていらっしたの?」と彼女は云った。
 敬助は何とも答えなかった。そして、彼女の眼が赤く充血していること、頬に血の気がなくて皮膚が荒れていること、髪が乱れていること、凡て不眠から来る様子に彼はその時になって初めて気付いた。
「済みません。」そう敬助はいった。
 八重子はちらと眼を瞬いて俯向いた。苦しい時間が過ぎた。「ではもう行ったらいいでしょう。」と云う中西の言葉に、彼女は初めて顔を上げた。
「ではまた参りますから
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