。お大事に……。」そして彼女は低くお辞儀をした。
 その時、彼女の束髪の下に隠れ去るその白い顔を眼瞼の中にしまい込むようにして、敬助は眼を閉じた。
 八重子が帰ってゆくと、凡てを取り失ったような寂しい時間が寄せて来た。障子に当っていた朝日の光りはいつのまにか陰ってしまっていた。室の中にはしっとりとした空気が澱んでいた。もう中西とも何もいうことはなかった。
 葡萄酒を一杯、鶏卵の卵黄《きみ》を二つ、鶏肉の汁を一椀、粥を少量、それだけ敬助は食べた。出来るだけ多量に取るようにと看護婦は云ったが、嘔気がしてそれ以上は食せなかった。
「でもまあこれだけ召上れば……。」と云って婆さんは、室の中をうろうろしていた。然し何も彼女の片付けるようなものはなかった。
 食物を取ると、敬助は急に嗜眠《しみん》を覚えた。そしていつのまにか力無い眠りに陥っていった。
 眠りの中に彼はこういうことを感じた。……高橋と斎藤とが室の入口に坐っていた。中西が彼等と何か話をしていた。言葉は少しも聞き取れなかった。敬助は眼を覚そうとしたが、それが非常に億劫だった。そのうちにも三人は何かしきりに話していた。そして暫くすると、二人は立ち上った。敬助はしきりに気になった。その時、中西が続いて立ち上ったので、彼は何か言葉を発した。然しそれは声になっては出なかった。三人が室の外に出てしまうと、彼は妙に安心を覚えて、またうとうとと眠ってしまった。……
 夜になって敬助は眼を覚した。そして昼よりは少し多量に食物を取った。それからまた眠りに陥った。
 夜遅く明け方に近い頃敬助はまた眼を覚した。あたりはひっそりとしていた。中西の姿は見えなかった。看護婦は室の片隅に蒲団の中に蹲って眠っていた。婆さんが褞袍《どてら》を着てつっ伏していた。それを見ると彼は何となく安心を覚えてまた眼を閉いだ。そして、電球に被せてある黒い紗の布がいつまでも眼の中に残っていた。
 ……とん、とん、とん、と間を置いた物音が何処からか聞えて来た。するといつのまにかそれが人の足音に変った。梯子段を上ってくる音だった。敬助はふと眼を開いた。足音はなお続いた。彼はじっと待っていた。然しいつまでもその足音は梯子段を上りきらなかった。そのうちにふと足音は止んだ。
 敬助はぞっと全身に戦慄を覚えた。そしてその恐怖の情が静まると、彼の心は急に暗い淵の中につき落された。彼は前後を身廻した。室の中は静まり返ったような気がした。そして思わず「慶子さん!」と叫んだ。声には出なかったがそれが室の中一杯に反響したようだった。「慶子さん、慶子さん!」そういう響きが四方から起ってきた。そして「慶子は死んだ」という感情が現実の姿を取ってまざまざと現われてきた。
 彼は急に起き上った。皆疲れきった眠りに陥っていた。機会は絶好だった。彼は立ち上ろうとした。然し全身に力がなくてまた其処に屈んでしまった。その時彼の頭にちらと閃めいたものがあった。彼は書棚の前に匐い寄って行った。そして静にその下の抽斗から懐剣を取り出した。鞘を払うと、刀身《とうしん》は鍔元に一点の錆を浮べただけで青白く輝いていた。彼は陰惨な笑いを顔に浮べた。そしてまたそっと蒲団の上に匐い寄っていった。
 その時、縁側の障子にはまった硝子板の一枚から、何か黒いものがじっと室の中を覗き込んでいた。彼はぞっと頭髪を逆立てた。そして我を忘れて、いきなり手に持った懐剣をそれに目がけて投げつけた。硝子の壊れて飛び散る激しい物音が家の中に響き渡った。
 婆さんと看護婦とが同時に飛び起きた。隣りの室から寝巻のまま中西が飛び込んで来た。敬助は石のように固くなって其処に眼を見開いていた。一瞬間そのままの時間が過ぎた。それから中西は、慴えている看護婦を促して、敬助を蒲団の中に寝かした。
 蒲団の中にはいると、敬助は氷枕がいつのまにか普通の枕に変ってることに気付いた。「生きてる!」ということがまざまざと感じられた。眼をつぶると、慶子の幻が眼瞼のうちに浮んできた。
 敬助は身を俯向きにして、悶えた。頭の中に慶子の最後の笑顔と「嬉しい!」と云った言葉とが蘇ってきた。而も両腕の中には永久の空虚が感じられた。その空しい両腕で彼は枕にしがみついた。そして泣き出した。嗚咽が後から後からと胸の底からこみ上げて来た。熱い涙が頬に伝わって流れた。
 中西は廊下に落ちていた懐剣を拾い上げた。そしてそれを手にしたまま、其処につっ立って、何か云った。然しその声は、敬助の耳には聞えなかった。
 夜が明けるまで、中西と看護婦と婆さんとは、敬助の側に起きていた。
 絶望と荒廃と寂寥とのどん底につき当ると、敬助の心は其処で止った。後は両手に頭を抱え込んで、つっ伏したまま動かなかった。思い出したように時々、彼は慶子の名を胸の奥でくり返した。そして
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