次第にその間の時間が長くなっていった。夜が明ける頃には、彼の凡ての意識は大きい渦巻きの中に巻き込まれて、ただ惘然としてしまった。
朝日の光りが障子にさした時、彼はじっと壊れた硝子のあたりを見やった。そして誰にともなく云った。
「済みません。」
硝子の代りに、婆さんは白紙を糊ではりつけた。敬助はその手元を眺めた。それから寒い爽かな朝の空が彼の眼にはいった。
「障子を開けてくれないか。」と彼は云った。
「寒くはないか。」と中西が云った。
「大丈夫だ。」
障子が開かれると、眩しい太陽の光りが室の中に流れ込んだ。空は綺麗に晴れていた。庭の樫の木の葉が、露に濡れてきらきら輝いていた。敬助は蒲団の中に首を引込めた。
「やはり閉めてくれ。」と彼は云った。
中西は障子を閉め切ると、敬助の枕頭に寄って来た。そして彼の顔を覗き込んで云った。
「君、しっかりしてくれ給え。それは悲痛だろうけれど、運命は君にそれを求めているんだから。」
敬助は軽く首肯いた。
「中西!」そう敬助は云って、じっと彼の手を握りしめた。涙が眼に湧いて来た。
けれどもその朝彼は、卵黄《きみ》を二つすすっただけで、何も食べなかった。それから葡萄酒を二杯飲んだ。
八時過ぎに秋子さんが俥を走らせて訪れて来た。彼女は眼を伏せて婆さんに導かれるようにして室の中にはいって来た。そして最後に障子の硝子の代りにはられた白い紙を見た。それから敬助の方を見た。
「秋子さん!」敬助はそう云って、床の上に起き上ろうとしたが、また身体を横にしてしまった。そして慶子にそっくりの彼女の真直な眉と心持ち黒目の小さな眼とを、彼は眺めた。ただその眼は赤く脹れ上っていた。
暫く沈黙が続いた。
「御気分は?」と秋子は云った。
「もういいようです」と敬助は答えた。
暫く沈黙が続いた。
「兄が宜しく申しましたの。」
「御心配をかけてすみません。」
また沈黙が続いた。
「外はお寒いでしょう。」と敬助は云った。
「ええ、すこおし……。」
また沈黙が続いた。
その時中西は立ち上った。そして階下を下りて行った。看護婦は階下で食事をしていた。
二人になると急に感情がこみ上げて来た。敬助は身を起した。すると秋子は彼の手に縋りついた。
「兄さん!」と彼女は叫んで泣き出した。
それは彼女が敬助に向けた最初の呼名だった。然し二人はそれに自ら気付かなかった。
「兄さん!」と彼女は泣きながら云った、「兄さんは、生きていて下さい。私がお願いですから。」
「ええ生きます。」敬助は声を震わした。
「私は覚えていますの、」と秋子はまた云った、「姉さんが云ったことを。私は死ぬかも知れない、けれど高木さんは助けなければって。」
敬助は思わず身を引いた。壜の中に僅かしか残っていなかった劇薬のことが、初めて彼の脳裏に閃いた。
秋子は息をつめて彼の様子を涙の眼で見上げた。
「どうかなすって?」
敬助はその声に我に返った。そして静に秋子の手を胸に抱きしめた。
二人はそのまま石のように固くなっていた。と急に秋子は肩を震わした。
「昨日、姉さんの、姉さんのお葬式をすましたの。そして今日は……。」
敬助は眼を閉じた。熱い涙が眼瞼に溢れてきて頼を流れた。もう何も云うことはなかった。彼は気が遠くなるような気がして床の上に横になった。秋子が彼の手を握りしめながら、片手で蒲団を掛けてくれた。
底本:「豊島与志雄著作集 第一巻(小説1[#「1」はローマ数字、1−13−21])」未来社
1967(昭和42)年6月20日第1刷発行
初出:「新小説」
1918(大正7)年12月
入力:tatsuki
校正:松永正敏
2008年10月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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