沖繩生れの女中が、あの家にいる。切れの長い澄みきった眼で、真黒な瞳をじっと注いでくる。小麥色の引きしまった頬に、ふさふさした黒髪。南国調だ。パパイヤ、マンゴウ、ドリアン……それほど香気の強い果物は更に南方へ譲って、せめて、木影の凉風に泡盛の一杯。
 二階には立派な座敷があるが、入口の土間に、白木の卓を並べた小さな飲み場がある。沖繩料理の白汁をすすり豚肉をつつきながら、泡盛を小杯でなめる。沖繩の人たちが行儀よく屯ろして、小声で話している。戦後、懐郷の念に禁じ難いものもあるであろう。だが、彼等が出て行ったあと、こんどは不行儀なことが始まる。
「ねえ、泡盛は酔いますねえ。泡盛は酔いの仕上げだ。」
 縞のネクタイの結び目を乱し、縞のワイシャツを袖口から長く出してる、浅黒い顔の男である。
「ことに、ここのは本場ものですからね。」
 景気のいいことを言ってるかと思うと、急にめそめそしてくる。
「あちこちで飲んで、月給を半分ほど使っちゃいましたよ。これじゃあ、女房の春の着替えも受け出せませんや。女房のやつ、何と言うかな……。南無泡盛大明神、われに知恵を授け給え、というわけで、一杯やってるんですが、酒は涙か……何とかと言って……。」
 卓に顔を伏せて、ほんとに泣いてるのである。まったく、なっちゃいない。他人でなかったら殴りとばすところだ。
「泣くなと言ったって、これが泣かずにいらりょうか。はははは。」
 もうけろりとしている。
「みんな帰っちゃった。僕一人を残してですよ。薄情な奴等ばかりだ。僕は孤独です。絶対に孤独です。そして悲しいんです。」
 また顔を伏せてしまう。
 沖繩生れの遼子が出て来て、彼の前腕に、かるく手先を添える。和服の襟をきりっと合せ、首を真直に、すらりとした立ち姿、自然に差し延ばした手の曲線、サロンの女主人公とも言える恰好である。
「三上さん、また酔いましたね。もうお銚子もからになったから、これでお帰りになったがよろしいわ。」
 きれいな音声だ。
「僕は悲しいんです。帰ります、帰ります。」
 驚くほどの従順さで、彼はよろよろと出て行く。その後ろ姿を、遼子は微笑で見送る。
 恥かしくないのか、彼女の微笑に対して。いや、恥かしいよりも、やはり、悲しいのだ。誰も彼も悲しいのだ。ビルの影から、唇の赤い洋装の背の低い女がつと出て来て、自分を影の中に置き、相手に燈火を受けさせる位置で、囁きかけ、ねえ、と顔色をうかがい、あそんで、と視線を胸から腰へすべらし、ゆかない、で足先まで見て取り、ズボンの膝がすり切れ靴が泥まみれになっておれば、ぷいと横を向いてしまう、その女の、商売柄の眼の鋭さも、また、男のみすぼらしい服装も、恥かしいより寧ろ悲しくはないか。
 なにが悲しいものかと、抵抗出来る人は幸だ。
 ――われは沖繩の紺碧の海を思う。
 あの海になら、死体が浮んでも恐らく美しかろう。東京の掘割のは醜悪だ。いつぞや、しかも白昼、橋のあたりを、胸と脚をあらわにした女体が、潮の加減でふわりふわり流れていた。通行人がいつしか群集とたまって、それを眺めた。誰も一言も発せず、ただ眺めてるだけだ。さほど人通りの多い橋でもないので、何かの奇抜な広告のマネキンではなく、まさしく死体だ。どろどろに濁ってるそんなところに、どうして浮いているのか、死体に聞いたって分りようはない。
 そのことがあってから、俺はその附近を通るのを、なるべく避けるようにしている。
 然し、都心地の掘割はたいてい続いていて、同じ濁った水が交流しているし、どこへ行くにも掘割を越さねばならない。水は人の心を和らげ慰めるが、夜分だけでなく、昼間もそうであるように、これらの掘割を清らかにしたいものだ。沖繩の海、沖繩の海の水。
 河岸ぷちに屈みこんで、街の灯のちらちら映ってる掘割の水面を眺めていると、またしても蛸の幻想が浮んでくる。泥ぐさい生ぐさい臭いのせいであろうか。石垣の下の干潟に、なにか黒いものが動めいてるようだ。水の中に、なにかが動めいて泡を立ててるようだ。そいつが、すーっと立ち上って、大入道の頭を持ちあげてきたら、どうする。抵抗出来ないじゃないか。
 後ろのビルの上階にも、一つの大入道がいることを、俺は故あって知っている。空襲中、捨値に売り出された家具類を買いあさり、田舎に運び蔵して、大金を儲けた。戦後、ヤミ物資の取り引きをして、また大金を儲けた。近頃、社会状態が落ち着くと、もう何事にも手を出さず、あの上階の事務所のソファーにふんぞり返って、ただ天下の形勢を観望している。情婦はいつもただ一人、だが時々取り変え、事務所にも美人の女秘書を置いて、コーヒーをわかせ、ウイスキーを注がせている。そいつがまったく、頭の禿げた蛸入道だ。
 ――大いなる蛸の如きもの、陸上にも水中にもあり。
 蛸の魔除けには、煙草に限る。キャバレー・ルビーで貰った一本の葉巻を、チョッキのポケットから取り出して、ライターで火をつけようとするが、なかなかつかない。
「おじさん、なにしてるのよ。」
 見返ると、これは侏儒だ。青いジャケツに黒いズボン、足には何をはいてることやら、柳の幹影から足音もなく出て来て、近々とそばに寄り立つ。俺のライターの光で、無害なものと見極めたのだろう。こいつも、蛸入道を怖がってるに違いない。なにしろ、薄暗い河岸ぷちのことだ。
 虚勢を張って、蛸を釣ってるんだ、と答えたが、小僧は笑いもしない。
「こんなとこ、蛸なんかいるものか。鯉ならいるよ。おじさん、鯉を釣ってるのかい。」
 これは気に入った。立ち上り、うまいことを言うほうびだと、百円札を一枚差出すと、小僧は俺の顔をじろじろ眺め、紙幣を引ったくり、ありがとう、声といっしょに消えてしまった。
 これも、幻影であろうか。無償の行為だ。胸がすーっとした。毒気がぬけたのだ。
 河岸ぷちを離れ、何処に行くという当はないが、も少し歩くことだ。
 騒音の暴力はもうなく、ネオンの光りだけが明るい。そこを突っ切ろうとすると、高木老人にぱったり出逢った。
「やあ、これはこれは、珍らしいところで……。」
 なにが珍らしいものか。珍らしいのは先様のことだ。更に珍らしいことには、高木老人は酔っていて上機嫌である。
「わたしは、今日はとても嬉しい。も少し飲みましょう。どこか、君の知ってるうちに連れて行きなさい。」
 既にだいぶはいってるらしい。
「いや、わたしはダンスはやらない。キャバレーも好まない。どこかこう、静かなところがよろしい。」
 そんならまあ、杉小屋か。老人の腕を執ると、二人の歩調も自然に合う。
「さっき、百合子に逢いましてね、いよいよ確かなところを見届けました。あれなら、もう大丈夫です。」
 歩きながらいきなり言い出されたのでは、何のことやらさっぱり分らない。
「ずいぶん苦心しましたよ。時おり行っては、それとなく様子を見、チップにしては少し多額の金を、ひそかに渡すんですからね。百合子はびっくりした顔つきで、初めは断りましたが、事情があって……と言うと、素直に受け取るようになりました。もっとも、それがどんな事情だか、理解したわけではないらしい。ほんとに理解されても困る。まあそれはとにかく、あすこは人目が多いから、これには弱りましたよ。第一、貞夫に出っくわしでもしたら、恥さらしだし、貞夫が来るかどうか、表から覗いてみるわけにもゆかず……弱りましたよ。」
 貞夫というのは、高木老人の令息であり、百合子というのは、カフェーかなんかの女給らしい。老人が息子と顔を合せないように用心しいしい、恐らくはそのカフェーの前を、なんどかこそこそと行きつ戻りつしたろう光景は、ちょっと微笑ましいじゃないか。
「もっとも、わたしがあすこに出かけて行ったのは、貞夫の身体が自由にならない時間、調べ物とか、会合とか、一日がかりの外出とか、そういう場合に限るのだが、それは、一つ家に住んでる親子だから、わたしに分らない筈はない。然し、万一のことがありますからね。用心は用心。用心のための苦心ですよ。」
 もうだいぶ遅く、杉小屋はさほど混んでいない。隅っこのボックスの中に身をひそめて、酒杯を挙げる。
「ほう、これはいい家だ。」
 ボックスの奥に腰を落ち着けてから、高木老人は初めて屋内を見廻し、しきりに感心してるのである。
 ところで、高木老人の話というのが、親馬鹿の標本みたいなものだ。至極平凡なことで、息子の貞夫が女給の百合子に惚れ、金につまり、両親に告白し、結婚の許諾を求めたが、母親の頑強な反対に出会い、欝々として自殺さえしかねまじき態度を取った。母親は一歩も譲ろうとしない。父親、高木老人は、心配の余り、先ず百合子の人柄を観察してみることに決心した。逢ってみると、善良そうな性質らしい。然し場所柄として、金銭のため悪い男に誘惑される恐れもあり、老人は時おり、貞夫にではなく百合子に、或る程度の金を与えてきた。――どうせ大した金高ではあるまい。
「わたしは今晩、最後の仕上げをしましたよ。金を渡しておいて、ちと恥かしかったが、どこかへ行ってみようか、一日か半日、温泉へでも遊びに行こうか、とそう言って誘ってみますと、百合子、ぱっと紅くなりました。それから、どういうものか、縮らした髪を片手でかきあげる真似をして、あの白い額の、細おもての顔を、きりっと引きしめ、眼をそらしながら、言うことがいいじゃありませんか。わたくし、そんな女ではございません。ねえ、どうです。わたくし、そんな女ではございません。」
 これじゃあ、甘っちょろくて話にならん。高木老人と貞夫との親子は、顔立ちがよく似ているし、高木老人の振舞いも訝しかったろうし、百合子は恐らく、事の真相とまでは分らなくとも、なにか怪しいと感づいていたに違いない。女はこんな時、巧みな芝居をするものだ。貞夫にも老人にもなんとも言わず、黙っていて、最後にただ一言、わたくしそんな女ではございません。
 それにしても、おかしいのは高木老人の話しっぷりだ。初めから、如何にも嬉々として楽しそうだった。最後の仕上げの件にしても、聊か色っぽすぎる。まるで惚気話みたいじゃないか。案外、百合子を好きになってるのであるまいか。老人の錯覚で、親切と愛情とを弁別出来なくなってるのではあるまいか。もし百合子が、彼の手を温かく握りしめて、連れていって頂戴、とでも言おうものなら……その後のことは神のみぞ知る。
 高木老人は打ち明け話をしながら、時にはにこにこ、時にはにやりにやり、それから時おり眼に涙を浮べている。いったい、心の底のその奥は、嬉しいのか悲しいのか、不感症になりかけたのを自覚しない老いぼれ蛸。
 俺もどうやら蛸壺に腰を落ち着けすぎたようだ。憂欝の気がかぶさってくる。立ち上って、電車がもう無くなりますよ、と言ってやると高木老人はあわてて立ち上り、勘定をすますが早いか、さっと出て行ってしまった。表の傾斜に滑り転んだかも知れない。
「おかしな年寄りですね。」
 森田が微笑している。俺は指先で頭に渦巻きを描いてみせた。
 俺だって頭が少し変梃だ。強烈な酒でもほしい。マダム・ペンギンのところか、京子のところか……それも今は億劫だし、遼子のところへはちと行きにくい。高木老人のおかげで、沖繩の海も見失ってしまった心地だ。森田が拵えてくれる怪しげなカクテルを飲むことにする。
 体も意識も、ふらふらと、明滅する感じだ。
 森田が戸外まで送って出て、空を仰ぐ。
「あしたも、天気らしいな。」
 独語には、俺は返事をしないことにきめている。第一、天気模様なんかどうだっていいじゃないか。
 手っ取り早く、輪タクだ。
 体がはいるだけの空間の、その幌の中は、別天地だ。蛸坊主からも脅かされず、沖繩の海からも誘なわれず、俺はうとうとと居眠る。そして夢を見た。
 両側に欄干のある、橋らしい大道だ。はっきりした橋ではないが、橋のようでもある。その両方の欄干に沿って、二人の女が歩いている。そぞろ歩きのように、ゆっくりゆっくり歩いてゆく。欄干のつきるところまで行って、左側の女がくるりと振り向き、右側の女もくるりと振り向
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