蛸の如きもの
豊島与志雄

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【テキスト中に現れる記号について】

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(例)窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]
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 ――大いなる蛸の如きもの、わが眼に見ゆ。
 八本の足をすぼめて立ち、入道頭をふり立て、眼玉をぎょろつかせて、ふらりふらり、ゆらりゆらりと、踊り廻り、その数、十、二十、或るいは三十、音楽のリズムの緩急には殆んど無関係に、淡い赤色の照明の中を、ふらりゆらり、くっついたり離れたり、踊り歩き、音楽が止むと、狭いホールの四方に散り、足をひろげてべたりと屈みこむのである。キャバレー・ルビーの夜のひと時。
「なぜ黙ってるの。」
 然し、何をしゃべることがあろう。誰だって、口をつぐんでひっそりしている。或るいは、口を利いてもひそひそと、黙ってるのに等しい。蛸に声が出るものか。口をくうくう鳴らし、吸盤をぴちゃぴちゃさせるだけだ。八本の肢体は足ともなれば腕ともなる。足を組み合せ、腕を組み合せ、または互に絡み合せて、吸盤をぴちゃぴちゃ……。擽ったいじゃないか。穢らわしいじゃないか。そら、バンドがまた始めやがった。こんどは踊りっ娘だ。静かに見ていろ。青い照明になったから、そう邪魔にはなるまい。
「ねえ、おなかが空いたわ。」
 今時分、なにを言ってるんだ。だから、女は食うことと眠ることだけだ、と木村に言われるんだ。もっとも、男は飲むことだけだ、と君は言ったが、これも一面の真理には違いない。
 バー・ペンギンで木村が酔っ払った時は、おかしかった。あいつ、やたらにブランデーをあおったものだから、すっかり足腰がたたなくなり、それを自分で気付かずに、ソファーから立ち上って、スタンドの方へ、なにかマダムに愛嬌をふりまきに行ったものだから……。第一、あのマダムに敬意を表するということはない。バー・ペンギンとはよく名づけた。マダムの恰好が、脚はちんちくで、胴はのっぺりして、口は反っ歯で、ペンギンそっくりじゃないか。滑稽を一種の愛嬌とするなら、まあ、こちらからも愛嬌を呈するのもよかろう。木村は眼に笑みを含んで、数歩あるいていったが、もう腰がくだけ、スタンドにつかまりそこね、腰掛にもつかまりそこね、すとんと尻もちをついてしまった。ばかりならよいが、起き上ろうとして、手足をばたばたやった。床に手をつくことを忘れたのだ。ダブルの上衣、ポマードをぬった髪、ぴかぴか光らしてるダンス用の靴、それで尻もちをついて、手足を宙にばたばた泳がしてる様子が、まったく滑稽で、俺は笑いだしたし、他の酔客も笑った。誰も助けにゆく者がない。その時、マダム・ペンギンが、さっと出て来て、彼を抱き起し、大真面目な顔で塵を払い落してやったりしている……。
 それからがあのいきさつだ。木村がマダムの体温にふれ、マダムの息を皮膚に受けたのは、恐らくあの時が最初だったろう。ペンギンの胴体がちょっと気に入ったと見える。考えてみれば、マダムが木村を抱き起した時、それだけのこととしては、少し時間が長くかかりすぎたような気がする。蛸が二つからみ合ったら、互に相手のどこかに、必ず、吸盤がふれるものだ。鳥なら羽毛が生えてるけれど、人間ともなれば、蛸と同じに、無防禦の素肌だからね。
「あたし、木村さんといつまでも続くとは思っていなかった。木村さんが浮気なことも知ってたし、あたし一人でないことも知ってた。だけど、まさか、マダムと……。口惜しいわ。マダムは若く見せてるけれど、もう四十すぎよ。だから、マダムの方で熱くなるのは、分らないこともないけれど、木村さんの……気が知れない。気が知れないというより、あたし、口惜しいわ。……口惜しい。」
 そんな風に訴えながら、京子は泣いたが、その泣き方が、多分にヒステリックだ。ヒステリックになるのは、年増の女だけとは限らないものらしい。或るいは、年上から年下へと感染するのかも知れない。かりに、マダム・ペンギンと木村とが初めに関係があって、木村が京子へ寝返ったとしたら、マダム・ペンギンのヒステリーは凄いものがあったろう。ところで、二十台の京子から、十台の小娘へ木村が寝返ったとしたら、京子のヒステリーはどんなものだったか、これは俺にも分らない。
 京子は女らしい皮肉を言って、バー・ペンギンから他の店へ移った。
「こんな風儀のわるいところにはおられません。」
 自分だけは風儀がよいつもりでいる。だから女とは他愛ないものだ。俺がそう言ってからかうと、京子は怒って、留七のトンカツとカキフライをぺろりと食べてしまった。
 留七は小さな店だが、ここのトンカツは東京一の大きさだ。美味ではあるが、大皿一杯の大きさだから、容易には食いきれない。これを、驚くことには二つも平らげた女がいる。
 京子はまあ中肉中背だが、光子はそれより少し背が低く痩せている。鼻がつんと高く、眼に鋭い光りがあって、謂わば貴族的にインテリ的に見える。
 光子はしんから怒っていた。京子よりも本気で怒っていた。洋裁店で、デザインもやり、ミシンも踏んでるのだが、客筋から届けられた南京豆を朋輩といっしょに食べてる時、光子があまり貪りすぎると皆から非難された。
「だって、痩せぎすの食い辛棒だなんて、ひどいことを言うんですもの。」
 それはそうに違いない。肥った女よりも痩せた女の方が大食いであることは、昔からきまっている。そんなことより、たかが南京豆をかじりながら、どうして口喧嘩などになったか、その方が興味深い問題だが、それは御婦人のデリケートな神経に関することで、他からの窺※[#「穴かんむり/兪」、第4水準2−83−17]をなかなか許さないのだ。
 光子は涙ぐんでいた。口惜しいとか悲しいとかいう涙でなく、立腹の涙であることは、額に少し青筋を浮べてることで分る。
「癪にさわるから、南京豆の殼を、力いっぱい投げつけてやったし、室中に投げ散らしてやった。」
 それでみると、殼のままの豆だったらしい。あれを、ばりばりむいて、ぼりぼりかじって、喧嘩してる、若い女たちの場面は、ちょっと挨拶に困るしろものだ。
 腹を立てるより、腹の中にトンカツでもつめこんだ方がよかろうと、留七へ誘うと、その皮肉には全く無反応で、まだ南京豆の一件を怒りながら、巨大なトンカツを二つも食べてしまった。おつきあいに、俺も一つ平らげた。
 京子と別れた時は、もう日が暮れていた。
 掘割の水がどんよりと暗く、それに街の灯が映り、風もないのに柳の若葉がそよいでいる。こんな時、ふしぎに、空の星が見えないものだ。いや、空を仰ぎ見ないものだ。眼は水面に重く垂れ、腹の中にはトンカツが停滞している。むかし、或る歌人が、トンカツのメランコリー、ビフテキのヒポコンデリーを、歌ったことがあった。だが、そんなのよりもっともっと気重いのである。
 石垣の下、掘割の中の狭い洲に、なにか黒いものがうごめいている。おもむろに、匍いずるように、移動している。人間じゃあるまい。蛸のような恰好で、ひょっこり、ひょっこり、移動している。あれが立ち上ったら、きっと人間になるだろう。
 気重さは、漠然たる怖れに変る。
 あ。天啓のように閃めくものがある。
 ――われ夢を失えり。
 失えりと気付くことは、持ちたしと望むことである。
 夢を持つには、平素の心掛けが第一であろうが、然し、時と場合によって、臨機応変の方策がないでもなかろう。
 都市はふしぎなもので、如何に整然とした都市にあっても、流れや淀みを至る所に作る。淀みには陰性が住み、流れには陽性が住む。東京のような戦災都市では、その差がまた甚しい。少しく行けば、たちまちにして喧騒の巷である。
 電車の響音、自動車の警笛、群集の靴音、それらを超えて空中に鳴り響く広告塔のラウド・スピーカー。これはまさに陽性的暴力だ。然しこれらの暴力の干渉外に、ネオン・サインの射照外に、ひっそりした隅々がある。ひっそりしてはいるが、然し、それは盲点ではない。そこに、酒の酔いと夢と哲理とがとぐろを巻く。
 その一つの、杉小屋には大勢の常連が集まっている。経営者の好みで、焼けビルの一階の広間を、日本酒に縁のある杉の木材で改装し、杉で作ったがらくた道具を置き並べた酒場だ。
 常連だけで殆んど満員である。ここには、バンドはもとより無い。ラジオも蓄音器もかけない。各自が勝手なことを声高に饒舌っている。ギリシャ哲学、近代政治、労働組合、アプレ・ゲールの理念、なんでも聞かれないものはない。ところが、ふしぎなことには、それらの高声な論議も、すーっと宙に吸われて、広間の空気はいやにひっそりしているのだ。コンクリーの四壁の音響反射のわるいせいか、天井の高いせいか、どのグループの人声も宙に消えて、ただ、饒舌ってる人のゼスチュアーだけがあとに残る。それはやはり、蛸坊主の秘密会合に似ている。
 蛸坊主の会合だから、さすがに腕もあり足もある。だが、その腕や足のゼスチュアーも、ここではあまり役に立たない。給仕の女たちは、紺絣にモンペ姿の品行方正な少女だ。蛸坊主どもが如何にも色気たっぷりに、腕や足をさし伸べようと、その吸盤は、深遠な論理の声音が宙に消え失せると同様、宙に迷って何の手応えも得られない。
 ひっそりした空気がかもし出され、酔いと夢とがはぐくまれるのだ。一隅のボックスで、中腰になって盛んに饒舌り立ててた青年が、どうしたことか[#「どうしたことか」は底本では「どうしたことが」]、相手の青年から、平手でぴしりと頬を殴られた。すると彼もまた、相手の頬に平手打ちをくわせ、卓上のコップを取って、ぱしっと床に投げつけ、微塵に砕いた。その時、隣りのボックスから一人の壮年が立ち上り、振り上げてる彼の腕を捉えて言う。
「やめろ、やめろ。やるなら、表に出てやれ。」
 やれ、という言葉が、酒をやれという調子に響く。
 青年は見向きもせず、はははと笑い、ボックスの奥に引っ込んで、相手とこそこそ話しだし、壮年も自分のボックスに引っ込んで、杯を挙げてるらしい。
 彼等は互に知り合いなのだろうか、それとも未知の間なのだろうか、さっぱり見当がつかない。見たところ、ただ、蛸が蛸壺からちょっと覗き出し、またこそこそと引っ込んだ、それだけのことに過ぎない。屋内の空気は水中のように静かだ。
 硝子の破片を掃きよせてる少女を横目で見やりながら、マネージャーの森田は言う。
「器物を壊されるのが、いちばん困りますよ。」
 至極もっともなことだ。
「然しわたしのうちでは、何を壊されようと、決して賠償して貰わないことにしています。」
 当然じゃないか。当然すぎて、面白くもおかしくもない。
 言うことは平凡だが、それでも、森田の眼はいい。くるくると動くどんぐり眼で、聊かの濁りも留めず、いつも四方八方を見てるような、方向定かならぬ視線だ。時に瞼をつぶって、その内部でなにか考え、またぱっと打ち開き、目玉がぐるぐると廻転する。見てる方で眩しい思いがする。
 眼の中に入れても痛くない、という愛情の表現があるが、森田の眼は、多くのものをやさしく抱擁してるに違いない。ただ、も少し静かにしていてくれるといい。酒の満ちた杯のように。今丁度、卓上の杯には酒が満ちている。電灯が映って、円やかにぼーっと閃めき……。
 あ。
 俺は酒杯の中にいた。
 空中を飛行しているのだ。空は青一色に円く、海も青一色に円い。地球が凸形に円く見えるのは地上にある時で、上空からは凹形に円く見える。壮大な瑠璃の酒杯を二つ重ねた、その中を、飛行機は飛んでいる。酒杯の縁の合せ目は、ぼーっと明るい閃めきだ。島が見えてくる。不規則に幾つも並んでいる。その上にさしかかると、海はますます青くなり、島々の周囲を白波が取り囲む。無人の岩山があり、その頂までさーっと白波が覆い、白波はまたさーっと引いて、黒い突兀たる岩山が現われ、それをまた白波が覆う。白色と青色との永遠の戯れだ。琉球上空の飛行である。
 その琉球の、瑠璃色の海を思わせる眼を持ってる、
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