き、おや、というように軽く会釈を交わす。右側の女の顔は、はっきり見えて、よく識ってるのだが、名前は思い出せない。左側の女の顔は、ただ黒ずんで、なにも見えないが、右側の女と同一人だ。誰だったろう。右側の女が、左側の女の方へ寄っていって、囁くように言う。
「伊佐子さん、御病気でしたって、もうおよろしいの。」
左側の女は、頷きの会釈をする。
そこで、ぱっと火事のように明るくなって、夢は消えた。
なあんだ、あの二人は伊佐子だったのか。伊佐子なら、識ってる筈、俺のむかしの恋人だ。
火事は、そうでなかった。明るい燈火が幌にさし込んだだけで、また薄闇になってしまう。俺はまた夢うつつに思う、伊佐子なら識ってる筈だ。
強いて眼を開いたが、薄闇だ。
――二重の人を、われ見たり。
輪タクは、ことことことこと、走ってゆく。真直に走ってゆく。
底本:「豊島与志雄著作集 第五巻(小説5[#「5」はローマ数字、1−13−25]・戯曲)」未来社
1966(昭和41)年11月15日第1刷発行
初出:「改造」
1950(昭和25)年6月
入力:tatsuki
校正:門田裕志、小林繁雄
2006年12月30日作成
青空文庫作成ファイル:
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