よ。第一、貞夫に出っくわしでもしたら、恥さらしだし、貞夫が来るかどうか、表から覗いてみるわけにもゆかず……弱りましたよ。」
 貞夫というのは、高木老人の令息であり、百合子というのは、カフェーかなんかの女給らしい。老人が息子と顔を合せないように用心しいしい、恐らくはそのカフェーの前を、なんどかこそこそと行きつ戻りつしたろう光景は、ちょっと微笑ましいじゃないか。
「もっとも、わたしがあすこに出かけて行ったのは、貞夫の身体が自由にならない時間、調べ物とか、会合とか、一日がかりの外出とか、そういう場合に限るのだが、それは、一つ家に住んでる親子だから、わたしに分らない筈はない。然し、万一のことがありますからね。用心は用心。用心のための苦心ですよ。」
 もうだいぶ遅く、杉小屋はさほど混んでいない。隅っこのボックスの中に身をひそめて、酒杯を挙げる。
「ほう、これはいい家だ。」
 ボックスの奥に腰を落ち着けてから、高木老人は初めて屋内を見廻し、しきりに感心してるのである。
 ところで、高木老人の話というのが、親馬鹿の標本みたいなものだ。至極平凡なことで、息子の貞夫が女給の百合子に惚れ、金につまり、両親
前へ 次へ
全22ページ中17ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
豊島 与志雄 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング