を取って、ぱしっと床に投げつけ、微塵に砕いた。その時、隣りのボックスから一人の壮年が立ち上り、振り上げてる彼の腕を捉えて言う。
「やめろ、やめろ。やるなら、表に出てやれ。」
やれ、という言葉が、酒をやれという調子に響く。
青年は見向きもせず、はははと笑い、ボックスの奥に引っ込んで、相手とこそこそ話しだし、壮年も自分のボックスに引っ込んで、杯を挙げてるらしい。
彼等は互に知り合いなのだろうか、それとも未知の間なのだろうか、さっぱり見当がつかない。見たところ、ただ、蛸が蛸壺からちょっと覗き出し、またこそこそと引っ込んだ、それだけのことに過ぎない。屋内の空気は水中のように静かだ。
硝子の破片を掃きよせてる少女を横目で見やりながら、マネージャーの森田は言う。
「器物を壊されるのが、いちばん困りますよ。」
至極もっともなことだ。
「然しわたしのうちでは、何を壊されようと、決して賠償して貰わないことにしています。」
当然じゃないか。当然すぎて、面白くもおかしくもない。
言うことは平凡だが、それでも、森田の眼はいい。くるくると動くどんぐり眼で、聊かの濁りも留めず、いつも四方八方を見てるような、方向定かならぬ視線だ。時に瞼をつぶって、その内部でなにか考え、またぱっと打ち開き、目玉がぐるぐると廻転する。見てる方で眩しい思いがする。
眼の中に入れても痛くない、という愛情の表現があるが、森田の眼は、多くのものをやさしく抱擁してるに違いない。ただ、も少し静かにしていてくれるといい。酒の満ちた杯のように。今丁度、卓上の杯には酒が満ちている。電灯が映って、円やかにぼーっと閃めき……。
あ。
俺は酒杯の中にいた。
空中を飛行しているのだ。空は青一色に円く、海も青一色に円い。地球が凸形に円く見えるのは地上にある時で、上空からは凹形に円く見える。壮大な瑠璃の酒杯を二つ重ねた、その中を、飛行機は飛んでいる。酒杯の縁の合せ目は、ぼーっと明るい閃めきだ。島が見えてくる。不規則に幾つも並んでいる。その上にさしかかると、海はますます青くなり、島々の周囲を白波が取り囲む。無人の岩山があり、その頂までさーっと白波が覆い、白波はまたさーっと引いて、黒い突兀たる岩山が現われ、それをまた白波が覆う。白色と青色との永遠の戯れだ。琉球上空の飛行である。
その琉球の、瑠璃色の海を思わせる眼を持ってる、沖繩生れの女中が、あの家にいる。切れの長い澄みきった眼で、真黒な瞳をじっと注いでくる。小麥色の引きしまった頬に、ふさふさした黒髪。南国調だ。パパイヤ、マンゴウ、ドリアン……それほど香気の強い果物は更に南方へ譲って、せめて、木影の凉風に泡盛の一杯。
二階には立派な座敷があるが、入口の土間に、白木の卓を並べた小さな飲み場がある。沖繩料理の白汁をすすり豚肉をつつきながら、泡盛を小杯でなめる。沖繩の人たちが行儀よく屯ろして、小声で話している。戦後、懐郷の念に禁じ難いものもあるであろう。だが、彼等が出て行ったあと、こんどは不行儀なことが始まる。
「ねえ、泡盛は酔いますねえ。泡盛は酔いの仕上げだ。」
縞のネクタイの結び目を乱し、縞のワイシャツを袖口から長く出してる、浅黒い顔の男である。
「ことに、ここのは本場ものですからね。」
景気のいいことを言ってるかと思うと、急にめそめそしてくる。
「あちこちで飲んで、月給を半分ほど使っちゃいましたよ。これじゃあ、女房の春の着替えも受け出せませんや。女房のやつ、何と言うかな……。南無泡盛大明神、われに知恵を授け給え、というわけで、一杯やってるんですが、酒は涙か……何とかと言って……。」
卓に顔を伏せて、ほんとに泣いてるのである。まったく、なっちゃいない。他人でなかったら殴りとばすところだ。
「泣くなと言ったって、これが泣かずにいらりょうか。はははは。」
もうけろりとしている。
「みんな帰っちゃった。僕一人を残してですよ。薄情な奴等ばかりだ。僕は孤独です。絶対に孤独です。そして悲しいんです。」
また顔を伏せてしまう。
沖繩生れの遼子が出て来て、彼の前腕に、かるく手先を添える。和服の襟をきりっと合せ、首を真直に、すらりとした立ち姿、自然に差し延ばした手の曲線、サロンの女主人公とも言える恰好である。
「三上さん、また酔いましたね。もうお銚子もからになったから、これでお帰りになったがよろしいわ。」
きれいな音声だ。
「僕は悲しいんです。帰ります、帰ります。」
驚くほどの従順さで、彼はよろよろと出て行く。その後ろ姿を、遼子は微笑で見送る。
恥かしくないのか、彼女の微笑に対して。いや、恥かしいよりも、やはり、悲しいのだ。誰も彼も悲しいのだ。ビルの影から、唇の赤い洋装の背の低い女がつと出て来て、自分を影の中に置き、相手に燈火を受けさせ
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