る位置で、囁きかけ、ねえ、と顔色をうかがい、あそんで、と視線を胸から腰へすべらし、ゆかない、で足先まで見て取り、ズボンの膝がすり切れ靴が泥まみれになっておれば、ぷいと横を向いてしまう、その女の、商売柄の眼の鋭さも、また、男のみすぼらしい服装も、恥かしいより寧ろ悲しくはないか。
なにが悲しいものかと、抵抗出来る人は幸だ。
――われは沖繩の紺碧の海を思う。
あの海になら、死体が浮んでも恐らく美しかろう。東京の掘割のは醜悪だ。いつぞや、しかも白昼、橋のあたりを、胸と脚をあらわにした女体が、潮の加減でふわりふわり流れていた。通行人がいつしか群集とたまって、それを眺めた。誰も一言も発せず、ただ眺めてるだけだ。さほど人通りの多い橋でもないので、何かの奇抜な広告のマネキンではなく、まさしく死体だ。どろどろに濁ってるそんなところに、どうして浮いているのか、死体に聞いたって分りようはない。
そのことがあってから、俺はその附近を通るのを、なるべく避けるようにしている。
然し、都心地の掘割はたいてい続いていて、同じ濁った水が交流しているし、どこへ行くにも掘割を越さねばならない。水は人の心を和らげ慰めるが、夜分だけでなく、昼間もそうであるように、これらの掘割を清らかにしたいものだ。沖繩の海、沖繩の海の水。
河岸ぷちに屈みこんで、街の灯のちらちら映ってる掘割の水面を眺めていると、またしても蛸の幻想が浮んでくる。泥ぐさい生ぐさい臭いのせいであろうか。石垣の下の干潟に、なにか黒いものが動めいてるようだ。水の中に、なにかが動めいて泡を立ててるようだ。そいつが、すーっと立ち上って、大入道の頭を持ちあげてきたら、どうする。抵抗出来ないじゃないか。
後ろのビルの上階にも、一つの大入道がいることを、俺は故あって知っている。空襲中、捨値に売り出された家具類を買いあさり、田舎に運び蔵して、大金を儲けた。戦後、ヤミ物資の取り引きをして、また大金を儲けた。近頃、社会状態が落ち着くと、もう何事にも手を出さず、あの上階の事務所のソファーにふんぞり返って、ただ天下の形勢を観望している。情婦はいつもただ一人、だが時々取り変え、事務所にも美人の女秘書を置いて、コーヒーをわかせ、ウイスキーを注がせている。そいつがまったく、頭の禿げた蛸入道だ。
――大いなる蛸の如きもの、陸上にも水中にもあり。
蛸の魔除けには、煙草に限る。キャバレー・ルビーで貰った一本の葉巻を、チョッキのポケットから取り出して、ライターで火をつけようとするが、なかなかつかない。
「おじさん、なにしてるのよ。」
見返ると、これは侏儒だ。青いジャケツに黒いズボン、足には何をはいてることやら、柳の幹影から足音もなく出て来て、近々とそばに寄り立つ。俺のライターの光で、無害なものと見極めたのだろう。こいつも、蛸入道を怖がってるに違いない。なにしろ、薄暗い河岸ぷちのことだ。
虚勢を張って、蛸を釣ってるんだ、と答えたが、小僧は笑いもしない。
「こんなとこ、蛸なんかいるものか。鯉ならいるよ。おじさん、鯉を釣ってるのかい。」
これは気に入った。立ち上り、うまいことを言うほうびだと、百円札を一枚差出すと、小僧は俺の顔をじろじろ眺め、紙幣を引ったくり、ありがとう、声といっしょに消えてしまった。
これも、幻影であろうか。無償の行為だ。胸がすーっとした。毒気がぬけたのだ。
河岸ぷちを離れ、何処に行くという当はないが、も少し歩くことだ。
騒音の暴力はもうなく、ネオンの光りだけが明るい。そこを突っ切ろうとすると、高木老人にぱったり出逢った。
「やあ、これはこれは、珍らしいところで……。」
なにが珍らしいものか。珍らしいのは先様のことだ。更に珍らしいことには、高木老人は酔っていて上機嫌である。
「わたしは、今日はとても嬉しい。も少し飲みましょう。どこか、君の知ってるうちに連れて行きなさい。」
既にだいぶはいってるらしい。
「いや、わたしはダンスはやらない。キャバレーも好まない。どこかこう、静かなところがよろしい。」
そんならまあ、杉小屋か。老人の腕を執ると、二人の歩調も自然に合う。
「さっき、百合子に逢いましてね、いよいよ確かなところを見届けました。あれなら、もう大丈夫です。」
歩きながらいきなり言い出されたのでは、何のことやらさっぱり分らない。
「ずいぶん苦心しましたよ。時おり行っては、それとなく様子を見、チップにしては少し多額の金を、ひそかに渡すんですからね。百合子はびっくりした顔つきで、初めは断りましたが、事情があって……と言うと、素直に受け取るようになりました。もっとも、それがどんな事情だか、理解したわけではないらしい。ほんとに理解されても困る。まあそれはとにかく、あすこは人目が多いから、これには弱りました
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